暗夜の月
作/苫澤正樹 



(………?)
 その音を聞いた時、祐一は思わず首をかしげた。
 先ほどまで静かだったはずの部屋に、急にざああああっ、という奇妙な音が響き始めたのである。
(雨か……?)
 最初はそう思ったのだが、先ほども確認した通り、その日は雲ひとつない快晴だったはずだ。
 それに、雨の音にしては、いやに規則正しく、まるで押し寄せる波のように強弱を繰り返しているのである。
 その様子に、祐一は、
(………?)
 わけがわからず、しばらくだんまりを決めこんでいたが、ややあって、その音の正体を確認すべく、眼を薄く開いた。
 針のように引き絞ったまぶたのすき間から、部屋の光が少しずつ飛びこんでくるのを確認しながら、少しずつまぶたを開けて行く。
 しかし、半分ほどまぶたを開いたところで、彼はおかしなことに気づいた。
 部屋の光が、
(いやに黄色い……)
 のである。
 普段使っている部屋の明かりは、普通の螢光燈のはずだ。太陽光が黄色を帯びているように見えることもあるが、それとてこんなに黄色くはない。
 それをよく知っている祐一は、早く正体を突き止めようと、そこから一気にまぶたを開いた。
 その時である。
 その眼に飛びこんで来た光景に、祐一は、
「む……」
 金縛りにあったかのように凝然となった。
 そこに彼が見たものは、いつも見慣れた部屋の姿ではない。
 どこまでも、曠然(こうぜん)と広がる黄金色の野原。
 そこで、人の背丈ほどもあろうかという大麦の穂が、風にまかせてざわざわとゆらめいているのだ。
 それが昼下がりの陽の下で、きらきら、ちかちかと輝いている姿に、祐一は、
(くそ……まぶしいな)
 思わず眉をしかめて片眼を閉じる。
 普段、どうということもないはずの麦の穂が、こうやって束になっただけで、かくも陽が照り返すようになるものか……。
 そんなことを考えながら、祐一がぼんやりと穂の波を眺めていると、急に、
「……ゆ……ち……」
 かすかな声が聞こえてきた。
 その声に、祐一が、
(な、何だ、今度は)
 あわてて辺りを見回すと、今度は、
「……祐一、祐一」
 はっきりと祐一に呼びかけて来た。
 どういうわけか声自体に妙な響きがかかっているため、よく聞き取れないが、甲高い少女の声のようである。
 それに気づいた祐一は、
「……おい、名雪か?」
 麦原に向かって声をかけた。
 自分のことを呼び捨てで呼ぶ女の子で、こんな高い声なのは、
(名雪くらいしかいない……)
 そう思ってのことだったが、麦原の中から返って来た答えは、
「違うよ……あたし、そんな名前じゃないよ」
 実に意外なものだった。
 その答えに、祐一は仕切り直し、
「じゃあ、誰なんだ」
 そう誰何(すいか)してみるが、
「分かるはずだよ、祐一なら」
 全く要領を得ない。
 まるで奥歯に物のはさまったような少女の言いぐさに、祐一が、
「そう言われてもなぁ……俺の方には、覚えがないんだ」
 半ばいらつきを覚えながら答えると、少女は、
「………」
 しばらく黙っていたが、ややあって、
「……やっぱり、覚えてないんだね」
 悄然としたようにつぶやくと、また黙りこんでしまった。
「………」
「お、おい?」
「………」
「おい、どうしたんだ?」
「……ひどいよ、祐一」
 麦の穂の向こうから、微かな泣き声が聞こえて来る。
 少女が、泣いているのだ。
「ひどいよ……ひどいよ」
 うわごとのように、そう繰り返しながら泣きじゃくる。
 まさか泣き出すとは思っていなかっただけに、祐一はあわててしまい、しばらくの間おろおろしていたが、ややあって、
「……な、なあ、そんなら、顔を見せてくれないか?そうすりゃ、思い出すかも知れないから」
 苦しまぎれに言い出した。
 普段から、
「俺には、人の顔を十二時間で忘れる特技があるんだ」
 などと戯れに言っているほど、人間の顔を憶えるのが苦手な彼ではあるが、もしかしたら、と思ってのことである。
 それでもまだ泣き続けている少女に、
「どうだ?なあ、こっちに来てくれよ。いつまでも泣いてないで、さ」
 やさしく祐一がとりなすと、やっと泣き声が止まった。
「……会ったら、分かる?」
「あ、ああ……」
「………」
「お、おい?」
「……分かったよ。今、行くから」
 急に決心したように、少女がしっかりした声で言う。
 その声に、祐一が今一度、眼の前の麦の波の中へ視線を投じると、がさりがさりという音とともに、小さな手が現れた。
 しかし、その二の腕が現れるや否やのうちに、祐一は眼に烈しい痛みを覚え、思わず眼を背けた。
 穂波の向こうから現れた少女の放つ恐ろしいまでの光芒に、
(両眼を射られた……)
 のである。
「祐一?ど、どうしたの!?」
 横を向いて躰をこわばらせている祐一の姿を見てか、少女があわてて呼びかけるが、彼の方はそれどころではなかった。
 眼を閉じても、横合いからまぶたを通して光がやってくるので、痛みは一向に治まらない。
 ぎゅっと閉じたまぶたのすき間から、どんどん涙があふれて来た。
 それでも、勇気をもってまぶたを薄く開いてみるが、その強烈な逆光に、少女の造作どころか姿までも覆いつくされて、そこに何かあるのかないのかすら分からない。
「祐一……祐一!?」
 少女の声はまだ続いている。
 しかも、声が大きくなるとともに、まぶたに入りこんで来る光が強くなってきた。
 少女が、近づいて来ているのだ。
「ぐ……ぐうっ……」
 状況が状況だけに、無下に追い払うことも出来ず、祐一がひたすら苦悶し続けていた時……。
「……ちくん、祐一くん」
 鼻先から、聞き慣れたあゆの声が響いてきた。
「祐一くん、祐一くんってば!!」
 しかし祐一は、眼を開けるや否や、
「えっ!?……って、うわぁっ!!」
 おびえたような叫び声を上げて、反射的に後ずさったのである。
 その反応に、部屋の上の方に浮かんでいたあゆが、
「うぐぅ……だから、そんなに驚かないでって言ってるのに」
 不満そうに言う。
「あ、な、何だ、あゆか。すまん、また驚いちまった」
「全く、これでもう三回目だよ……。もう五日も経ってるんだから、いい加減慣れてよ」
「いやいや、悪い悪い。どうも、幽霊にたたき起こされるってのは勝手が違ってなぁ……」
 ばつが悪そうに答える祐一に、あゆはしょうがないというようにため息をつくと、
「そんなことより、みんな、もう行くって」
 手短に用件を伝えた。
「えっ……あ、もうそんな時間か」
「もう秋子さんも名雪さんも準備しちゃって、祐一くんを待ってるよ」
「ああ、ごめんごめん。今すぐ行くから」
 そう言うと、祐一は机の上に置いてあったリュックを背負い、せかせかと部屋を後にした。
 そして、玄関で待ち受けていた二人と合流すると、そのまま川端の道を駅前通りに向かって歩き始めたのである。
 三人が向かった先は、札ノ辻の電停であった。
 ちょうど、尾根原へ向かう電車が一両、交叉点の角に鼻先を見せたところで、すぐに乗ることが出来た。
 いつも通り、電車の中は適度な混み具合で、三人は前の方に座席を取る。
「次は陣屋町、陣屋町、晴れの日は是非とも神前で……結婚式場の千勝会館前でございます。電車の直前直後の横断は、大変危険ですのでおやめ下さい」
 そんな紋切型の車内放送を響かせながら、まっすぐな石畳をごろごろと走ると、電車は陣屋町の電停へと滑りこんだ。
 と、その時、祐一が、不意に電停の右前、交叉点の東隅にこんもりと盛り上がった社叢を指さし、
「あれですか、千勝神社(ちかつじんじゃ)ってのは」
 秋子に水を向けた。
「ええ。知りませんでした?」
「はい……いつも、初詣は駅前通りの天神さんでしたから」
 「駅前通りの天神さん」こと南森天神社は、水瀬家のある連雀町(れんじゃくちょう)を中心に氏子を持つ、中堅どころの神社である。
「そうですか。一度、行っておいた方がいいですよ。物見神社に関係ある人なら特に……」
 そんな話をするうちに、いつか電車はものみの丘の横をすり抜けて裏へと回って行く。
 そして、狭い道路の道端に張りつくようにして延びる専用軌道をひとしきり走ったあと、真名井の電停へと到着したのだ。
 三人は、ここで電車を降りた。
 こうなれば、もはや三人の行く場所が、妖狐一族のいるほら穴であることはすぐに知れるであろう。
 妖狐一族と思いがけない偶然から知り合い、殺生石の破壊を依頼されてから五日目の今日、これから彼らは、あるものを浦藻に見せるために、急きょ会合を開こうとしているのである。


「あ、みなさん、お久しぶりです」
「あぅーっ、みんな、久しぶり」
 大広間に入ると、浦藻と真琴の兄妹が出迎えた。
「いやいや、お久しぶりです。……真琴も、元気にしてたか?」
「もちろんよぅ。こうやって祐一と会えるのを、一日千秋の思いで待ってたんだから」
 そう言ってえへへ、と笑ってみせる真琴の頭を、浦藻はぽんぽんと手のひらで叩くと、
「そうなんですよ。こいつ、会合が開かれるって聞いた途端、妙にうきうきしちゃったりして……」
 眼を細めて優しい声で言う。
 その言葉に、さらにいたずらっぽく笑う真琴に、祐一も思わずほのぼのとした気分になったが、名雪に、
「祐一、今は会合の方が先だよ」
 そう急かされ、大広間の右にある建物――社務所へと入った。
 この頃には、一同とは別に姿を消して空を飛んできたあゆも、無事に合流している。
 そうして全員が席についたのを確認すると、
「さて……それでは、始めましょうか」
 上座に座っていた秋子が、そう言って立ちあがった。
「今回集まって頂きましたのは、美汐ちゃんの家から見つかった写本についてなんですが……あの、浦藻さんも真琴も、この話については大体聞いてますよね」
「ええ。あゆさんから、概略だけはうかがいました」
 浦藻がそう答えると、秋子は安心したようにうなずき、手許の封筒の中から一冊の古ぼけた写本を取り出した。
 写本といっても、かの奈良絵本のように豪華な装釘がしてあるわけではないし、高級な紙が使われているわけでもない。
 表紙は縹色(はなだいろ)の、それも何の模様もない厚紙であるし、本文も下等な楮紙(ちょし)を一般的な袋とじにして使っているにすぎないのだ。
 ただ、内表紙へ墨痕も鮮やかに『物見神社覺書』と書かれた題が、この一見いかにもつまらなそうな写本を、重要なものとして一同に認識させていたのである。
「そうですか……この本が、ですか」
 そう言ってしげしげと写本を眺める浦藻に、美汐が発見の経緯(いきさつ)について話し始めた。
 それによると……。
 この本が見つかったのは、まったくの偶然からであったという。
 発見のきっかけとなったのは、三日前の朝にあった地震であった。
 この地方には珍しく大きな地震で、水瀬家でもたんすの上の置物が倒れたり、きれいに並べてあった本棚の本が倒れてぐしゃぐしゃになったりしている。
 しかし、天野家の場合は、それが母屋だけではなく、そこについている古い蔵の方にも起こってしまった。
 蔵の方から響いた鈍い音に、朝の暗さをおして中に入ってみると、奥の方で柳行李が棚から落ち、古い紙や本が散乱していた。
 この地に長く住んでいる天野家には、歴代の当主の持っていた江戸時代の板本や書簡、書きつけなどがたくさんある。
 そのほとんどはそれほど価値のあるとはいえないものだったため、美汐の父・治雄が子供の頃、祖父がそれらをまとめ、柳行李に放りこんで蔵の奥に押しこんであった。
 以来、四十年以上の長きに渡って顧みられることもなかったのであるが、このたびの地震でその中身が散乱してしまい、思いがけず日の目を見るに至ったのである。
 これらの本の存在を知らなかった美汐は好奇心をそそられ、それらの本を柳行李ごと引っぱり出して自室へ持って行き、床に広げて眺めていた。
「そのほとんどは、洒落本とか人情本とか、暦とか相撲の番付とかで、古本屋でも数千円くらいしかしないようなものばかりだったんですが……その中で、一番下に入っていたのがこの『物見神社覺書』だったんです」
 これを見た美汐が、飛び上がらんばかりに驚いたのは言うまでもない。
 研究家がいくら探し求めても出て来なかったはずの物見神社に関する重要史料が、自分の家から、それもこんなにあっさりと見つかってしまったのだから当然である。
 まあ、個人の家の蔵なぞ、普通は何かなければ整理するものでもないから、このような形で貴重な史料が見つかることは、
「郷土史の世界ではよくあること……」
 なのだが、それにしても驚くべきことだと言えよう。
 一通り本をめくったあと、烈しく波打つ心臓を押さえながら、美汐は水瀬家へ電話でこのことを伝えた。
 そして、それを受けた秋子に、
「至急、その本を持ってこちらへ来るように……」
 そう指示され、本を持って急ぎ水瀬家へ行くことになったのである。
 本を見た秋子は、
「これは……」
 案の定瞠目した。
 そうして一通り経緯を聞き取ると、
「これを、しばらく貸して下さい。解読してみますから」
 そう言い、詳しい解読と内容の分析に取りかかったのだった。
 その作業が昨日の夕方にようやく終わったため、今日になって会合を緊急に開くことになったのである。
 美汐の説明が終わると、秋子は、
「それでは、まずこの本について、いくつか基本的な説明をさせて頂きます」
 そう言いながら、手許にあった数枚のプリントを座に回した。
 プリントが完全に回ったのを確認すると、秋子は、
「あまり詳しくやると書誌学的な話になってしまうので、簡単に要点だけ行きますね。……まず、内題――内表紙に書かれた題は『物見神社覺書』。本来なら表紙に題簽(だいせん)と呼ばれる、題を書いた紙がついているはずなのですが、これでは失われています。写本の場合、内題と外題(げだい)――表紙の題ですね――が違う場合も多いのですが、ここでは一応内題を正式な題としておきます」
 本を手にしながらすらすらと説明してみせる。
「そして、ここで一番重要なのが、この本の著者と書写年です」
 そう言うと、秋子は後ろ表紙をめくり、一番後ろの丁(写本・古板本での頁の数え方。一丁は現在の二頁にあたり、面を表・裏で区別する)の裏を出した。
「かなり達筆でみなさんには読みづらいかと思いますが、ここに『貞治六丁未年(ひのとひつじのとし)秋九月朔日(ながつきついたち) 天野宗右衛門喜教記』とありますね。……貞治六年ですから、西暦だと一三六七年になります。殺生石がこの地に墜落する十二年前ですね」
 と、その時、それを聞いた浦藻が、
「何ですって……天野宗右衛門、ですか?」
 急に色めき立った。
「何ですか、その天野宗右衛門ってのは……もしかして、浦藻さんのご先祖とか?」
 と、これは祐一。
「いや、そうではありません。この宗右衛門喜教という人は、この天野家の分家に当たる血筋の人です」
「と、いうことは、美汐のご先祖さま……」
「そういうことになりますね」
 そう言う浦藻の言葉に、祐一が美汐の方を見てみると、驚いた様子もなく、ゆっくりとうなずいてみせる。
「既に予想はついていた」
 というのだろう。
「それに、この天野宗右衛門という人は、わたしたちみたいに南森地域の神社を調べている人の間では非常に有名な人なんです。陣屋町の千勝神社の神官としていろいろな史料を残した上、妖怪を退治して回っていた、なんて派手な話もたくさん残ってますから」
 実は今回、この写本が見つかるまで秋子が行っていた調査というのも、千勝神社に残る天野宗右衛門関係の史料の中に、物見神社関係の史料がないかどうか探すところから始まったのだという。
 千勝神社の神官を一〇世紀の創建から五百年間務めた天野宗右衛門の家が、物見神社の神職家である天野家の分家であることは、千勝神社に残るさまざまな古記録によって随分前から知られていたし、千勝神社自体が、今から千年ほど前に物見神社を分祀して作られた神社であることも、
「疑いのない事実……」
 として認められているのだから、これはまことに正当なやり方と言わざるを得ないだろう。
 その正当なやり方で探しても結局見つからず、困り果てていたところに、突然「天野宗右衛門の直筆写本発見」の報が飛びこんで来た……というわけだ。
「なるほど、それなら自分の親戚筋がやっていた物見神社について、こんな記録を残していてもおかしくはないですね」
 納得したようにうなずく祐一の横合いから、今度は美汐が、
「でも、本当にその奥書(おくがき)を信用していいんでしょうか……」
 不安そうに訊ねる。
「そうですね……仮にこれが直筆ではなく後世写されたものとしても、奥書まで丸ごと写してしまうことはよくあることですから、丸々信じていいとも言えませんけどね。でも、千勝神社の直筆史料と見比べてみた感じでは、筆蹟がよく似ていましたから、信用しても構わないと思いますよ。……まあ、その辺は今後の調査によりますけど」
 それを聞いて、美汐が安心したような顔になるのを見て、秋子は再び話を進めた。
「さて、次は内容なんですが……これが、すごいものでした。まず前半が縁起、つまり社伝です。そして後半が、物見神社について、境内の社伝の位置から年中行事、果ては当時の神職家の家族構成まで、実にこと細かに記してあります」
 そう言うと、秋子は本を一同に見えるように上に上げ、ぱらぱらとめくってみせる。
 その途中には本殿や境内を記した精密な図や絵なども多く入っており、それだけでもこの本の記録としてのレベルの高さが知れようものだ。
「本当は、全部紹介したいんですが……今日は、とりあえず一番重要な部分を紹介しておこうかと思います。原文は漢文ですので、とりあえず、わたしが訓読したものを書き下してお配りしました」
 秋子はそう言うと、手許にあった先ほどのプリントを手に取った。
「そこにあるのは、神職家についての記述です。……実はここに、先日から一番の問題になっていた、神職家の家名が全部出ているんです」
 言われて、プリントを見た一同が、一様に眼を見張った。
 何とそこには、秋子の言う通り、
『祠官は天野氏・美坂氏・川澄氏・水瀬氏・月宮氏・倉田氏の六家より奉祀す。夫れ(それ)前(さき)の三家は陰陽に秀で、衆魔を能く(よく)降伏(ごうぶく)す。蓋し(けだし)妖狐の末孫か。如くの是く(かくのごとく)謂ふ(いふ)者多し。後の三家は古へより真名井に坐す(ます)御食津神(みけつかみ)を祀れる家なり……』
 云々と、先日まで全く不明であった神職家の名前が、全て出ていたのである。
「なるほど、これはすごいですね。これさえ分かれば、百人力ですよ」
 そう言った浦藻の声は、心なしか興奮していた。
 こんな形で大きな糸口をつかめたのがよほど嬉しかったのか、
「今のところ揃っているのは……天野家の私たちと美汐さん、水瀬家の秋子さんと名雪さん、そして月宮家のあゆさんの三氏ですね。となると、残りの美坂家・川澄家・倉田家の人たちが問題になるわけですが……」
 ひとりで話を進めながら、改めて祐一たちの方へと顔を向ける。
 しかし、顔を向けられた当の本人たちは、困惑しきったような顔つきで、しきりにひそひそと話し合っているではないか……。
 それを見て、浦藻が、
「……どうかしたんですか?」
 不思議の顔つきとなって訊ねると、祐一はどうしたらよいか訊ねるように名雪の方へ顔を向けたが、すぐに、
「それがですね……今出てきた美坂・川澄・倉田って姓の人が、俺の知り合いに全員いるんですよ」
 ためらいがちに言い出した。
「何ですって……本当ですか?」
「ええ。いや、本物じゃなくて、ただ同姓なのかも知れないんですが……それにしちゃ、全部揃ってるってのは出来過ぎてるな、と思いまして。それに……」
「それに?」
「その人たちって、このところ、俺たちと同じように妙な体験をいろいろしてるんです」
「どういうことですか、それは?」
 いよいよ興奮の体となり、身を乗り出しながら訊いてくる浦藻に、祐一は、
「ええと……どういうことと言われましても、ちょっと一口じゃ言えないんで、それぞれ言って行きますね」
 やや落ち着かない様子で話し始めた。
「まず美坂ですが……これは、俺のクラスメイトで名雪の親友でもある香里って娘(こ)と、その妹で一年生の栞って娘の姓がそれです。それで、何が妙な体験かというと、この妹の方がもともと病弱な気質(たち)だったのが、去年の暮れあたりから死病に冒されましてね。二月まで到底生きられないだろうと言われて、実際に一月の末には瀕死の状態になってたらしいんですが……それが二月一日に日付が変わった途端、突然治ってしまったらしいんです。それまで、立ち上がれないほどに熱があったにもかかわらず、ですよ」
 その言葉に、名雪がうんうんとうなずいてみせる。
 祐一自身は、栞と会ったのは南森に越してきてから二日目と、そのあと数回にすぎない。詳しいことは、知己としてつき合いの長い名雪にあとから全部聞いたのだ。
「ふうむ……そりゃ、ちょっと妙ですね」
「ええ。当人たちは、『奇跡が起こった』と言ってますが、確かにそうとでも言わないと説明できないでしょうね」
「………」
「それと、川澄・倉田ですが……この二人は、川澄舞と倉田佐祐理っていう俺の先輩があたるかと思います。すごく仲のいい親友でしてね。……で、倉田の佐祐理さんの方は普通の人なんですけど、川澄の舞の方がちょっと、変わってるんですよ。何だか、毎晩うちの学校の校舎にやって来て、廊下で『魔物』と戦ってるらしいんです」
「『魔物』……?何ですか、一体」
「いや、それが眼に見えないもんだから、俺にも舞にもよく分からないんです。ただ、こっちに来てからすぐに、名雪に借りたノートを学校に忘れて来たことがあって、わざわざ夜中に取りに行ったことがあったんですが、その時に、その『魔物』ってやつに襲われたことがありましてね……」
「………」
「とにかく、とんでもないやつでしたよ。突然、足許をすくわれて、ぶわあっと躰ごと持ち上げられたかと思うと、そのままがあんと躰の左の方を壁にたたきつけられまして……。それから考えると、眼には見えないんだけど、何かとてつもなく大きなエネルギーが、一個の生命体のように動き回っている、そんな感じじゃないんでしょうか」
 そう言いながら、襲われた時の感触を思い出したらしく、祐一は顔をしかめてみせた。
「……で、その舞さんという人は、どうやってその『魔物』と戦ってるんですか?」
「基本的には、剣ですね。真剣かどうかはちょっと分からないんですが、洋剣みたいな諸刃の剣をぶん回しながら、親の敵と言わんばかりにずばずば斬ってましたよ」
 と、その時、真琴が急に、
「あーっ、思い出した!」
 大声を上げて話に割りこんで来た。
「それって、あの人でしょ?あたしが、祐一にいたずらしようとして、わざわざ学校まで追ってった時、剣を振り回して襲ってきた、あの女の人!」
「あ、そういえば……そんなこともあったな。そうだ、あれが舞だよ」
「あうぅ……何であんな棒っきれ振り回してるのかと思ったら、そんな事情があったんだ……」
 恐怖と納得がないまぜになったような顔つきで言う真琴の頭を、浦藻はひとなでしてやると、
「それはそれとして……その戦いの決着は?」
「あ……ええと、俺もそんなにつき合ったわけじゃないんで。恐らく……まだついてないんじゃないかと」
 祐一が、どぎまぎしながらそう言うと、浦藻は、
「そうですか……確かに、みんな普通じゃありませんね。特に、舞さんという方は」
 難しい顔つきで答えてみせた。
「やっぱり、『魔物』が気になりますか」
「ええ。もしかすると……殺生石が放った手先か何かかも知れないと」
 突然、とんでもないことを言い出した浦藻に、祐一が、
「……そんなのがいるんですか?」
 驚いた声で訊くと、浦藻は、
「いえ、いると分かっているわけではありません。でも、あの殺生石なら、それくらいのことはやりかねませんので……」
 困ったような顔つきで答えた。
「なるほど……まあ、ともかく、その二人と美坂姉妹には、改めて俺たちの方でそれとなく話をしてみますよ。そうしなけりゃ、始まりませんからね」
「そうですか……お願いします。私たちが動けないばっかりに、いろいろお手数をおかけしまして申しわけありません」
「いえいえ、手数は承知の上です。恋女房のためと思えば……」
 そう言って、突然いけしゃあしゃあと惚(のろ)けてみせた祐一に、
「ぷっ……ゆ、祐一、一体何言い出すのよぅ」
 真琴が真っ赤になって口を出す。
「何って……本当のことじゃないか。あの日、きちんと結婚式を挙げたんだから」
「そ、そりゃそうだけど、わざわざ言わなくても……」
「何を言うか。大人だったら、これくらいの女房自慢は当たり前だぞ」
「あぅーっ……そ、そんなら、大人じゃなくていいわよぅ」
「おやおや、子供のままでいいのか?前だったら、無理矢理にでも大人ぶってたのに」
「あぅーっ、そ、それは……もうっ、前のことなんていいじゃないのよぅ。祐一の意地悪ぅ……」
 二人がそんな他愛のない会話をしていると、名雪が、
「ねえ、お楽しみのところ悪いんだけど……」
 苦笑しながら口をはさんだ。
「香里や栞ちゃん、それと川澄先輩と倉田先輩……だったっけ、に話をするって言うけど、本物って保証はないんだよね?」
「あ、ああ……それはまだ分からないな」
「だったら、うかつに話をしちゃまずいんじゃないかな?何せ、うちが妖狐のみんなと関係があることだって、一子相伝だったくらいだし……」
「でも、他に方法がないんだよな。確認するったって、ここの入口まで連れてきて、通れるかどうか試してみなけりゃいけないからなぁ……何の事情も話さずにそんなことすりゃ、怪しまれるのがおちだぞ」
 と、その時、二人の会話を見ていた秋子が、
「あ、それについてなんですが、判断材料になりそうな話が『覺書』にありますよ」
 そう言って、『覺書』のとある丁を開いてみせた。
「これなんですけどね……神職家の分家のある場所について書いてある場所なんですが、これによると、南森川と鏡川の交わっている角、今でいうと橋場町の北西の角に、六家全部がかたまってあったらしいんです」
「へえ……って、橋場町の北西の角って、ちょっと待てよ。おい美汐、お前、家が見附の電停の近くだって……確かあそこの電停から西へ行くとほぼどんぴしゃの位置にならないか」
 祐一があわてて美汐に水を向けると、美汐は、
「ええ。今、秋子さんがおっしゃったところに、確かに自宅があります」
 落ち着いた声で答えた。
「なるほど……蔵があるくらいだから、ずっと昔から住んでたのも間違いだろうしな」
「それに……」
「それに、何だ?」
「先ほどの倉田佐祐理さんという先輩の家なんですが……私の家の隣なんです」
「何だって……」
 この思いがけない事実に、祐一が驚きの声を上げたのは言うまでもない。
 真琴と舞は、先ほども言った通り、偶然の事故で一度出会ったきり、ほとんど面識もないのである。
 その親友同士が、同じ界隈に軒を連ねているとは、さすがの祐一にも思い及ばなかった。
 まことに、
「世の中というのは狭いものだ……」
 と祐一は思った。
「でも、越してきた可能性ってのはないのか?」
「いえ、それはないですね。あちらの家も、うちと同じように蔵がありまして……以前、大掃除の時にのぞいてみましたら、いろいろ古い道具類やら壺やらが、ほこりをかぶって次々と運び出されてたりしてましたから」
「そうか……それなら、かなり古くから住んでるんだな」
「ええ、間違いないと思います」
 美汐の明確な答えに、祐一はひとつうなずくと、
「それと……おい、あゆ。お前、自分の家が昔どこにあったとか、聞いたことないか?」
 奥の方に座っていたあゆに声をかけた。
「えっ……うん。随分前、幼稚園くらいの時だけど、死んだおじいちゃんとあの辺に行った時、昔うちはここにあったんだ、って指差して教えてくれたことがあったけど」
「幼稚園の時か。そんな前じゃ、あやしいな」
「うぐぅ……そんなこと言われても、仕方ないよ。それにボクの家、もうなくなっちゃってるし……」
「ああ、そうだったな……」
 祐一と初めて出会ったあの日、母親の失踪という非常事態に見舞われたあゆは、やむなく市街地とものみの丘を隔てた向こう側の集落にあった自宅で父親と二人暮らしをしていた。
 当然、あゆが入院した後もそこには父親が暮らしていたのだが、四年前に突如心臓病で急死し、主を失ってしまった。
 そこで、唯一の親戚で現在あゆの治療費を支払っている大叔父がその管理をすることになったのだが、それも二年前に彼自身が入院したために管理が出来なくなってしまい、結局家は人手に渡ることとなったのである。
 しかもその家自体が、三十年以上前に一度火を出し、全焼したのを建て替えたものだというから、そもそも昔のことをうかがい知れる資料など満足にあるはずがないのだ。
 触れてはならないことに触れてしまったような気がして、二人が気まずそうに黙りこんでいると、秋子が、
「あ、祐一さん、そのことについて、もう一つあるんですが……」
 横から助け船を出してくれた。
「何ですか?」
「実はうちも、うちの人が生まれる頃までは橋場町の、それも美汐ちゃんの家の向かい側に住んでいたらしいんですよ」
「何ですって……」
 祐一は、再び絶句した。
 神職家の中で唯一物見神社の記憶を残し、一子相伝でそれを伝えてきた水瀬家もまた、『覺書』に書かれた場所に家があったことがあるというのだ。
 そうなってしまったら、同じ所にある天野・倉田の両家が神職家の分家であるという判断を、
「下さざるを得ない……」
 ではないか。
 その結論に、祐一は、
「むう……」
 渋い顔でうめいたが、ややあって、
「そこまで証拠があるんだったら、思い切ってやれるってもんですね」
 納得したように言った。




 さて……。
 それから正式に浦藻から舞と佐祐理、そして美坂姉妹の説得を頼まれた一同は、説得に目途がついたらまた会うことを約束し、電車で帰途についた。
「橋場町の美汐の自宅へ行ってみよう」
 という提案を祐一がしたのは、ちょうどその時である。
 祐一を含め、ここにいる一同は、まだ彼女の家には行ったことがない。
 また今まで行く必要もなかったのであるが、こういう大発見があった以上は、関係する場所として今後の調査のためにも確認しておく必要があるはずだ。郷土史研究家として、長く物見神社関係の調査に関わってきている秋子がメンバーとなっているのだから、なおさらであろう。
 それに、せっかく佐祐理の家の隣に住んでいるのだから、もしかすると、
「説得の糸口を見つけるいい機会になるかも知れない……」
 のである。
 そんなことや、美汐の両親が共働きで昼間家にいないということも手伝って、一同はこの提案を快く受け入れ、そろって途中の見附で下車することになったのだ。
 黄色の矢印の補助信号を遵守(じゅんしゅ)して丘の横から併用軌道に飛び出した電車は、物見町で対向電車へスタフ(通行証)を受け渡すと、窓から手を伸ばせば軒先に手が届くのではないかと思うほど狭い通りの真ん中をがたがたと走ってゆく。
 そうして、鏡川にかかる見附橋を渡ると、すぐに見附の電停であった。
 戦後にここだけ電停の統廃合が行われなかったため、前後の電停とは百五十メートルほどしか離れていないが、これはこれで利用者の役に立っているらしく、多くの人が降りようと前扉のところへやって来る。
 そうしては、
「よいしょっ、と……」
 そんなかけ声をかけながら、電停へと踏み出して行くのだ。
 年寄りばかりだというわけではない。ここの電停は、幅員が非常に狭くなっているせいできちんとした安全地帯が作れないため、安全地帯になるべきところを鋲と白線で区切り、中をカラー舗装してその代わりとしているのである。
 つまりは道と同じ平面であるわけで、その分電車を待っていて自動車に引っかけられる危険性もあるわけだが、ここの道はそれほど交通量が多くないので、今までとりたてて事故もなく来ている。
 そんな素朴な電停と、古びてところどころひび割れた軌道敷や電信柱から広告板に混じってぶら下がる電停標、そして古い家並の中に混じってたたずむ電停前の駄菓子屋、という郷愁にあふれたその光景には、好事家ならずとも、
「ほう……」
 と思わず眼を細めてしまうものがある。
 件(くだん)の集落は、その電停の北側の横丁を左へ曲がり、ずっと奥へ入ったところにあった。
 『覺書』にあった通り、確かに南森川と鏡川の交わる部分に六つの家が南北に分かれてきれいに並んでいる。
 果たして、美汐の家はその区画の北側の中央にあった。
 全部で百二三十坪もあろうか、よく手入れされた椿の生垣に囲まれ、昔ながらの木造二階建の母屋と大きな内蔵を擁するその敷地は、ここが地方都市であることを斟酌してもかなり広く、「地主の家」と言っても通用するほどのものだ。
「はあ……同じ川沿いでもこれだけ違うとはなあ」
「うん……うちの三倍はあるんじゃないかな、これ」
 同じ南森川の東岸にありながら、四十坪ほどの敷地しかない我が家と比べてため息をつく祐一と名雪に苦笑しつつ、美汐はこれもまた古めかしい玄関の格子戸を開くと、
「どうぞ、こちらへ」
 自ら一同を庭に面する居間へといざなった。
「しかしなあ……」
「何ですか?」
「いくら古いとはいえ、ダイヤル式のテレビに柱時計、ってのはな」
 そういって祐一の指さした先には、確かにほとんど骨董品としか思えないような年代物のカラーテレビと、日焼けして黄色くなった硝子のはめこまれた柱時計が、それぞれ上と下に並んでたたずんでいる。
「玄関の電話も黒電話だったし……ちょっとやりすぎじゃねえか?」
 どこかあきれたように言う祐一の口調に、美汐は、
「やりすぎって……別にわざとやってるわけじゃないですよ。うちは昔からこうなんですから」
 少しむっとして言い返す。
「うーん、こういうの見ると、お前がおばさんくさくなったわけが何となく分かる気がするよ」
「また、『おばさんくさい』ですか……」
「おや、言い返さないのか?」
「ええ、もうあきらめました」
 その時、祐一のからかいにむっつりとして茶を飲み干す美汐の姿を見かねてか、名雪が、
「祐一、美汐ちゃんをからかったら駄目だよ」
 横合いから祐一に釘を刺した。
「いやあ、悪い悪い。こう見えて美汐って、からかいがいがあるからなぁ」
「知りません」
 そう言ってますますへそを曲げてしまった美汐に、祐一が盆の窪へ手を当てながら、
「いや、すまん、ちと言いすぎたよ。それに、俺もこういう雰囲気は好きだから、さ」
 さすがに申しわけなさそうに言うと、美汐は、
「そうですか……」
 しかたがないというように表情を緩めてみせる。
 まことに、
「他愛のない会話……」
 なのだが、この二ヶ月間、こういった会話がこの二人の間を近しいものにして来たといってよい。
 むろん近しいといっても、祐一は仮にも恋人持ちの身であるし、「親友」以上のものは何もないのであるが、それでも、
「もうこれ以上、私に関わらないでください」
 などと、祐一と話すこと自体を拒絶したりしていた以前と比べれば、格段の進歩であると言えよう。
 その姿に、秋子はあらあら、といつも通りの笑顔を浮かべると、
「ところで……例の本が見つかったという柳行李を見せてもらいたいんですが」
 本題を切り出した。
「あ、それですか。今、私の部屋にありますので……」
「どうしましょう。聞いた話だと、随分大きなものみたいですし……もし、ご迷惑でなければ、こちらからうかがいますけど」
「あ……ええ。よろしければ、ご足労願えますか。実を言いますと、上に持って行く時も余りの大きさに父と二人で持ったくらいですし」
「そうですか……それじゃ、そうさせて頂きますね」
「どうぞ、どうぞ」
 そうして、一同は二階の美汐の自室に移動し、例の柳行李の中身を見ることになった。
 ただ、見るといっても中身が中身だけに、満足に見ることが出来るのは美汐と秋子くらいのものだし、そこで交わされる会話の内容も、
「これですか、例の本の上にあったのは……」
「ええ。どうやら、西鶴の『好色一代男』か『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』か何かの写本らしいんですが……ほら、あの手の作品はみんな板本ですから、珍しいな、と」
「なるほど、確かにちょっと珍しいですね。でも残念ながら、それほど価値があるわけではないですよ」
「えっ……なぜですか?」
「実はこの手の写本は、江戸時代のものじゃないんですよ。明治になってからちょっとした西鶴ブームがあったんですが、その時に残存数が少ないのを補うために、好きな人たちが書き写したものなんです。それも結構いいかげんに写したせいか、質が悪くて悪くて……。だから、価値が相当低くなるんですよ」
「なるほど……」
 などと、古典籍についての知識がないととてもついて行けないような内容の部分もあり、祐一を含めた他の三人は床に座りこんで、時折質問をしたりしながら黙って話を聞いていた。
 祐一が、
「おい、窓開けていいか?」
 遠慮がちに言い出したのは、それからしばらく経った時のことである。
「あっ、どうぞ」
 美汐の答えを受け、祐一は会話の邪魔をしないように立ち上がると、通りに面した窓のそばに立った。
 そして、閉まっていたレースのカーテンを開け、窓の鍵に手をかけようとした時だ。
 不意に、祐一がその手を止めた。
「おや……?」
 彼の視線は、表の通りを東から歩いてくる一つの人影に注がれている。
 薄茶色の長い髪の毛に、これでもかと後頭部で存在を誇示する緑のギンガムチェックのリボン。
 地味ながら特徴的なその姿に、祐一は見覚えがあった。
(ありゃ、佐祐理さんじゃないか……)
 このことである。
(ふうん……本当に隣に住んでるんだな)
 そんなことを思いながら、祐一が眼の前を通り過ぎて行く佐祐理を何の気なしに見つめていると、ややあって、急に彼女が立ち止まった。
(気づかれたか……?)
 一瞬そう思ったが、どうやら違うらしい。
 次の瞬間、佐祐理が、上を向かずに後ろを振り返ったからである。
 そうして、元来た方向へ二歩ばかり踏み出して止まり、また家の方へ向き直って三歩ばかり歩いたあと、また振り返る。
 明らかに、
(何かをしかねて迷っている……)
 のである。
 佐祐理のこんな姿を見るのは、祐一も初めてのことだ。
(………?)
 不思議の感にとらわれ、しばらく見つめていると、やがて正面に向き直り、自宅の方に歩いてゆく。
 その歩き方も、普段快活な彼女にしては、ひどくぎこちない感じがした。
 と、その時である。
「何してるの、祐一くん」
 出し抜けに後ろからあゆが声をかけてきた。
「あ、ああ……今、偶然佐祐理さんが帰って来るところだったんで、見てたんだ」
「ふうん……もう行っちゃったみたいだね」
「ああ」
 そう言いながら振り向いてみると、ふわふわと浮いているあゆの後ろに、他の一同もやって来ている。
「何だ、もう話の方はいいんですか?」
「ええ、一段落つきましたから。……それで、倉田さんが帰って来たんですって?」
「はい……どうしましょうね?」
「まあ、急いでもしかたないですよ。お話をして、それから浦藻さんたちのところに連れて行かないといけませんから……」
「それもそうですね」
 そう言って秋子の言葉にうなずくと、祐一は窓のそばから離れようとしたが、すぐに何かを思いついたように美汐の方へ向き直ると、
「あ、そうだ、美汐、今思いついたんだけどさ……お前って、佐祐理さんとはどうなんだ?」
 不意に問いかけた。
「えっ、どう、って……」
「いやさ、以前にお前、妖狐の一件がある前から、あまり友達がいなかったって言ってただろ。でもほら、佐祐理さんとは隣同士なんだし、それなりのつき合いがあってもおかしくないな、と思ってさ」
「え、ええ……仲良くさせて頂いてますよ。同じ学校の先輩ですしね。……でもそれも、ここ二三年くらいのことで、それ以前はちょっと」
「そうか……」
「あ、いや、違うんですよ。この場合、私が原因というよりも、ちょっと倉田さんの家の方に問題がありまして……」
 美汐によれば、倉田家は以前近所づきあいを一切しないことで有名だったのだという。
「結局、あそこのお父さんの繁弘さんって人がよくなかったんですよね。あの人、ずっと県議会議員をやってらしたんですけど、そのせいかどうもお高くとまったところがあったんです。極端に言えば、あんたら一般人とは格が違うんだ、とでもいうように」
 そんな人間が世帯主をやっていたのだから、当然、娘である佐祐理が近所の者とつき合うことも喜ばなかったし、実際、はた目から見れば異常と思われるくらい厳しく禁じていた節もあった。
「ところがですね、もう三年くらい前ですか……急にですね、変わったんですよ、態度が。突然、他人に対して開放的になりまして、近所づきあいなんかも積極的にするようになったんです」
 このことに、天野親子はじめ近所の者が戸惑ったのは言うまでもない。
 当初は、その前年に繁弘が県議選に落ちていたことから、
「基盤づくりのためのパフォーマンスではないか……?」
 と疑う向きもあったが、やがて繁弘の懸命さにほだされ、今では何かあると頼りにするようになっているという。
 美汐と佐祐理が交誼を結んだのも、この時からであった。
「ふうん、そうか……しかし、何でまた、そうころっと変わっちまったんだろうな。何かあったのか?」
「いえ……それについては、私もよくは知らないんです。まさか、ご本人に直接お訊きするわけにもいきませんしね」
「なるほど、そりゃそうだな」
 美汐の答えに仕方ないというようにうなずくと、祐一は、
「秋子さん、ちょっと俺、佐祐理さんのところに行って来ていいですか」
 秋子に水を向けた。
「えっ、何か?」
「……あ、いや、別に取り立てて何かしようってんじゃないんです。ほら、知り合いですし、あいさつくらいはしようかと思いましてね」
「そうですか。行ってらっしゃい」


 こうして秋子の許しをもらった祐一は、一人玄関を出た。
 最初はきちんと門から門へ訪ねようかと思ったが、佐祐理が庭に面した縁側に座りこんでいるのを見て、敷地の仕切りにしてある生垣の上から声をかけることにした。
「佐祐理さん、佐祐理さん」
 その声に、佐祐理はうつむけていた顔を上げて、
「えっ……?」
 しばらく周りを見回したが、ややあって、
「あ……祐一さん」
 驚いたような顔でこちらを振り向き、ぱたぱたと駆け寄って来る。
「やあ、久しぶり。こんなところで会うなんて、奇遇だなあ」
「え、ええ……でも、どうして祐一さんが天野さんのところに?」
「いや、な……実はうちの居候第二号の真琴ってのが、こいつに随分世話になったんでね、そのお礼に俺たち総出で来てたところだったんだよ。そしたら、佐祐理さんが隣の家に入って行くのを見かけてね。驚いて、こうやって顔見せしに来たってわけさ」
「はえー……そうだったんですか」
 祐一の話を、佐祐理はなるほどというような顔で聞いていたが、しばらくして祐一の後ろをのぞきこむと、彼の耳許に向き直り、
「あ、そうだ……祐一さん、立ち話もなんですし、門から回ってこちらに来ませんか」
 小声で言い出した。
「えっ、いや、気を使わなくてもいいよ。すぐに戻るつもりだから」
「いえ、そういうわけにいかないんです」
「えっ……?」
 突然、ものを頼んでいるとは思えないようなせりふを言い出した佐祐理に、祐一が驚いて顔を上げると、彼女が凝(じっ)とこちらを見つめているのに気づいた。
 普段の朗らかに笑みをたたえた眼つきとは打って変わって、
(何かを思いつめているかのような……)
 その眼つきに、祐一はそれ以上断ることも出来ずにうなずくと、言われるままに門から門へと歩みを進めた。
 そして、
「さ、どうぞ、こちらへ……」
 佐祐理に言われるままに縁側へと座りこんだのである。
「それで佐祐理さん……一体、どうしたんだ?」
「はえっ?」
「いや、さ……今日の佐祐理さん、何だか悩んでるみたいだったからさ」
「ふぇ……分かりましたか」
「ああ。……俺でよかったら、相談に乗るけど」
 その言葉に、佐祐理は顔をうつむけて考えこんでいたようであったが、しばらくしてこちらに向き直ると、
「実は……祐一さんにお願いがあるんです」
 決心したように切り出した。
 そして、それに対して祐一が何かを言おうとした時である。
 隣に座っていた佐祐理が、急に縁側の上へ飛び乗ったかと思うと、そのまま土下座の体となり、
「祐一さん……舞を、舞を助けてあげてください」
 必死の声で言い出したものだ。
「えっ……?」
「お願いします、もう望みは祐一さんしかいないんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
「駄目ですか?」
「いや、そうじゃなくて……とにかく、頭を上げてくれよ。そんなんじゃ話も出来ないからさ」
 突然のことに、祐一があわててとりなすと、佐祐理はやっと頭を上げた。
「で、俺に舞を助けてくれって、一体どうしたんだ。……まさかあいつ、また何か面倒に巻きこまれたんじゃないだろうな」
 実は舞には、学校関係のいざこざに巻きこまれる機会が非常に多い。
 もともと非常に無口なたちで性格もかなり変わっていることから、クラスの中で人間関係が作れない、というのがその一つだ。
 むろん、「学校」といっても高校、それも進学校であるから、直接的ないじめなどはないのだが、それでも全体的に彼女を疎んじる向きは強い。さらに人によっては誹謗中傷の類を言いふらして回る輩などもいて、そこから小さないさかいが起こることもあるらしいのだ。
 それだけでも充分厄介なのであるが、さらに厄介なのが「魔物」との戦いである。
 舞が毎日夜中に学校に忍びこみ、そこで剣で「魔物」なるものと戦い続けているということは前にも述べたが、実はこの際、「魔物」を斬ろうと振り回した剣が校舎に当たり、窓硝子を割ったり教室のドアを壊してしまったりすることが多い。
 それも一度や二度ではないものだから、このことがいつからか一部の教職員や生徒会に知れ、舞のことを、
「夜中に意味不明の破壊行為をする、不穏な生徒……」
 として認識させる結果となってしまった。
 このために舞は相当数の人間から眼をつけられるようになった上、一部の人間からはあら探しをされるようになってしまい、実際に二ヶ月前にはそのせいで退学処分にされたこともある。
 この処分も、生徒会長の久瀬進が、教職員でも口を出せないほどに強大となった会の権力をさらに盤石のものとするため、父親の知り合いで市議会議員の倉田繁弘の娘である佐祐理を生徒会に取りこむべく、邪魔な舞を追い落とそうとして画策したこととか……。
 この処分は結局、反生徒会派の教職員の猛烈な抗議によって取り消され、しばらくして舞は無事に復学したのであるが、それでもいざこざの火種が消えたわけではない。
 久瀬をはじめ、舞のことを面白からず思っている人間がいる限り、
「いつ火がついてもおかしくはない……」
 のである。
 それを知っていた祐一は、真っ先に生徒会との衝突あたりを懸念してそう言ったのであるが、それに対する佐祐理の答えは実に意外なものであった。
「いえ……そうじゃないんです。助けて頂きたいのは、『魔物』との戦いの方なんです」
「えっ……今、何て?」
「ですから、『魔物』との戦いです」
「ちょっと待ってくれよ、何で佐祐理さんがそのことを知ってるんだ?」
 祐一の記憶では、確か舞は、
「佐祐理を巻きこみたくない」
 と言って、この事実を佐祐理に決して知らせようとはしなかったはずだ。
 その問いに、佐祐理は何ともばつの悪そうな顔をしたが、やがて、
「いや、それがですね……たまたまだったんですよ」
 観念したように言い出した。
 その話によると……。
 実は佐祐理も、今年になってから生徒会の連中が噂し合っているのを聞いて、舞が夜な夜な学校へ出かけ、何かをやっているということを知ったのだという。
「それで、舞が隠しごとをするなんて変だな、と思って、その次の日に訊いてみたんですけど……佐祐理には関係ない、の一点張りで。しかたがないので、現場に直接行ってみることにしたんです」
 その時、佐祐理の脳裡に浮かんだのが、数日後に迫った舞の誕生日であった。
 そして、夜の校舎で零時ちょうどに誕生日のお祝いを、と思った彼女は、その後すぐに雪見町のおもちゃ屋で大きなありくいのぬいぐるみを購入し、当日の夜に舞の後を追って学校へと向かったのである。
「佐祐理としては、本当に軽い気持ちでやったんですけど……校舎に入ってしばらく行ったところで、急に後ろから何かにどーんと突き飛ばされまして、ぬいぐるみの下敷きになってしまったんです。起き上がろうととしても重くて起きあがれないし、必死ではいだそうとしても、何かに頭を押さえつけているような感じで……。結局、すぐに舞が飛んで来て助けてくれたので、どうにか大丈夫だったんですが……案の定、こっぴどく叱られちゃいました。その時、一緒にこの話を聞かされたんです」
「そうだったのか……怖かったろ?」
「え、ええ……。舞が必死になって佐祐理を止めたわけが、それでやっと分かりました」
 その一件で、身をもって「魔物」の恐ろしさを思い知った佐祐理は、舞の気づかいにやっと納得し、心配を押し隠しながら静かに見守ることにしたのだという。
「なるほどなあ。でも、見守ることにしたのに、どうしてまたこんな風に首を突っ込んでるんだ?」
「それなんですけど……最近、舞の様子がちょっと普通じゃなくて、放っておけなくなったからなんです」
「普通じゃない……?」
「ええ。最近、急にけががひどくなって来てるんです」
「けがが?そりゃ、あんな『魔物』を相手にしてるんだし、けががひどい時だってあるだろ」
「いえ、それが極端なんですよ。今までのけがは、大きくてもせいぜいひざの切り傷くらいだったんです。それが、最近では連日のようにすねや腕に大きなすり傷を作ってきたり、肩に大きなあざを作ってきたりしていて……明らかに今までのけがと違うんですよ」
「………」
「しかも、あまり立て続けにやるものだから、治りも遅いらしいんです。そのせいでずっと何日も痛そうに躰を引きずっている姿を見ていると、佐祐理も、もう我慢出来なくて……」
「………」
「だから祐一さん、お願いです。このままじゃ、舞、死んじゃいます……」
 そう言って涙を流し、再び平伏する佐祐理のその姿は、まさに必死そのもので、さすがの祐一も、
「分かった、分かったから、顔を上げてくれよ」
 あわてて首を縦に振らざるを得なくなってしまった。
「えっ……本当にいいんですか?」
「ああ」
「ありがとうございます……ありがとうございます」
 そう言って三たび頭を下げる佐祐理に、祐一は、
「おいおい、だから土下座は勘弁してくれよ」
 軽く苦笑したが、すぐにまじめな顔になり、
「……むしろ、土下座して頼みこまなけりゃいけないのは、こっちの方なんだから」
 ぽつりと言った。
「は、はえ?ど、どういうことですか、それは……?」
「いや、実はな、俺たちの方でも、佐祐理さんと舞に頼みごとがあるんだ。それも、この『魔物』の一件と関わりがあることを」
「えっ、『俺たち』って……」
「それはこれから話す。……その前に、佐祐理さん、舞をここに連れて来れるかな?直接引っ張って来るんでも、電話でもいいから」
「え、ええ……日中は、必ず家にいるはずですから。ここからも近いですし……一緒に行きましょうか?」
「ああ」


 結局、全ての話のかたがついたのは、それから一時間半後のことであった。
 案の定、舞は佐祐理がこりずに「魔物」のことへ首を突っこもうとしていることに反発し、
「……行くわけにいかない」
 と頑強に言い張ったが、祐一が必死に頼みこんだおかげで、渋々ながら家を出てくれた。
 そうして彼女を連れてきたところで他の一同と合流し、倉田家の居間でいろいろと諸事情について話すことになったのである。
 余りに突拍子もない話に、二人は当然ながら大いに驚いたものの、妖狐一族の悲惨な現状を語り進むにつれて心をほだされたらしく、すぐに協力を快諾してくれた。
 殊に動物好きで涙もろい舞などは、
「……ぐす……妖狐さん、かわいそう」
 と涙ぐみ、さらには、
「……妖狐さんを、絶対救う!」
 と意気ごみ出すありさまで、祐一としてはまるで泣き落としでもかけたようできまりが悪かったが、それでも高校生としては度が過ぎるくらい純粋な舞らしい反応に、ただ苦笑するばかりであった。
 ともかく、こうして思いがけず、懸念であった倉田・川澄両家の引き込みに成功したわけである。
 その後、二人を加えた一同は、再び見附の電停から電車に乗り、浦藻たちの許へ向かった。
 その時点でもう三時を回ろうかという時刻で、既に陽が傾きかけていたし、本来なら明日にするべきところであったが、舞が、
「……明後日は卒業式だから、今日かたをつけたい」
 と言うため、それに従ったのである。
 さすがの舞も、こんな生活を大学生になってまで続けようとは思っていないらしい。
「……正直なところ、もういい加減、疲れた」
 というのだ。
 さて……。
 一同は、いつものようにぞろぞろと入口の古井戸を通り、妖狐たちのいる洞穴へと入った。
 ここでも、佐祐理と舞にとっては当然ながら驚きの連続で、口をあんぐりと開けたまま、
「はえー……」
「驚いた……」
 などとしきりに驚きの声を上げている。
 それでも、社務所で浦藻・真琴の兄妹と対面する頃にはそれも落ち着いてきて、無事に話し合いを進めることが出来た。
「……なるほど、よく分かりました」
 舞の話を一通り聞き終えた浦藻は、そう言ってひとつうなずいた。
「つまり、こういうことですね?最近、前のとは別に、もっと凶暴な『魔物』が現れるようになって来た、と」
「……はちみつくまさん」
「……?何ですか?」
「あ、すみません、これ、『はい』なんですよ。前に俺が、あんまり無愛想だからせめてかわいい言葉を、と思って提案してみたら、気に入っちゃったらしくて……。ちなみに、『いいえ』は『ぽんぽこたぬきさん』ですんで、よろしくお願いします」
「そうですか。分かりました」
 世にも奇妙な三人の間の習慣に、浦藻は少し苦笑したようだったが、すぐにまじめな顔となり、
「それで、凶暴とは、具体的にどれほどのものなんですか?」
 再び舞に訊ねた。
 その答えに、舞は、
「……殺気の度合いが、比べものにならない、です。あまりの強さに、いつも私も気圧されてしまうん、です」
 珍しく敬語を使ってみせた。
 もっとも、普段ぶっきらぼうに話しているだけに、いかにも慣れていないという感じで、ご丁寧に文末がぶつ切れになってはいたが……。
 しかし、浦藻は気にする様子もなく、
「殺気の度合い、ですか」
 と応じる。
「……はちみつくまさん」
「やっぱり、殺生石の手先ですかね、そいつら?」
 舞の答えを受けて考え込んでしまった浦藻に、横合いから祐一がそう言うと、浦藻は額に手を当てて、
「どうですかねえ……何度も言います通り、まだ、そういうものがいると分かっているわけではないですからね」
 困ったように言う。
「まあ、ともかく、今回の戦いでは、手先いかんにかかわらず、我々の方でも充分に支援させていただきます。……といいましても、何せこの状態ですから、式神を放って何かあった時に連絡(つなぎ)がつけられるようにして、その都度武器を送ったりする程度ですが」
「そうですか……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 そう言って深々と頭を下げる祐一に、浦藻は照れくさそうにうなずくと、舞に向き直り、
「それで、なんですけどね。舞さん、確か『魔物』は剣で斬っているんでしたね?」
 改めて問いを投げかけた。
「……はちみつくまさん」
「よろしければ、その剣を今こちらに持って来ていただきたいのですが……」
 浦藻のその言葉に、舞は無言でうなずき、入り口へと向き直る。
 その背に、秋子が、
「あ、舞ちゃん。電車で行くなら、お金を出しますよ」
 ポケットから財布を出しながら言ったが、舞は、
「……ぽんぽこたぬきさん」
 ふるふると首を振りながら答え、
「……走っても、行けるから。二十分で行って帰って来れる」
 そう豪語して入り口の階段を駆け上がって行った。
 そして、その言葉通り、それから二十分もたたないうちに、諸刃の洋剣に似た剣二振と、片刃の日本刀一振の合わせて三振の剣を携えて戻って来たのである。
「……これ」
 舞が息も上げずに、そう無愛想に言って剣を床に置くと、浦藻は、
「では、失礼して……」
 そう言いながら床に座りこんだ。
 そこには、既に一枚のござと燭台が用意されている。
 浦藻は、懐から懐紙を一枚出して口にくわえると、剣の一振を手に取り、両手で燭台の火の高さまで持ち上げながら、静かに鯉口を切った。
 ぱちん、という乾いた音と共に、するすると銀色に輝く刀身が引きずり出されて行く。
 浦藻は、その抜き身の剣をまっすぐにおのれの真正面にかざし、眼を近づけたり離したりして充分に刀身全体を眺め回していたが、しばらくして怪訝そうな顔となった。
 そして、そのまま刀身に手のひらをかざし、何かの力のようなものを感じ取ろうとしていたようだが、やがて、
(どうも分からない……)
 というように首をひねり、再び剣を頭上に持ち上げながら鞘(さや)に納めた。
 それをもう二振についても繰り返し、さやに納めると、浦藻はやっと、
「どうも妙だな……」
 不審の念を口に上せた。
「妙って……何が妙なんですか?」
 その言葉を聞きとがめて訊ねる祐一に、浦藻は、
「まあ、順を追ってご説明しましょう」
 周りに座って一連の作業を見守っていた一同に向き直り、
「さて、結論から申し上げますと……この三振、いずれも刃引きです」
 厳かな声で言う。
「刃引き……ですか?」
「要するに、刃のついていない模造品だということですよ。ただ、普通刃引きの刀というと、最初から刃をつけないものと、きちんと作った刀の刃を潰して切れなくしたものとがあるのですが……これはどうやら、前者のパターンで少したたいたもののようですね」
「じゃ、切れるんですか?」
「いえ、切れません。試しに……ほら」
 そう言って、二ツ折にした懐紙の間に剣を通して思い切り横に引くが、びりびりと破れるばかりで一向に切れてくれない。
 それは、あとの二本の刀も同じだった。
「本当ですね」
 その結果を、祐一は驚き半分、安心半分で受け止めた。
 実を言うと、
「あのままじゃ、銃刀法違反でひっくくられるんじゃ……」
 密かに舞のことを心配していたのである。
「でも、刃がなくても、『魔物』って斬れるもんなんでしょうかね?」
「それなんですけどね……『魔物』は霊のような精神体ですから、普通のものや人を斬るのとは違って、刃がなくても『気』がありさえすれば斬ることが出来ます」
「『気』……?何の『気』ですか?」
「具体的に言えば、自然の中にいる神や、その剣が属している神社の神の『気』です。この『気』の作用はですね、ぶっちゃけて言えば、切れない刃引きの刀――この際、儀礼用と言ってもいいでしょうね――に切る力を与えることです。むろん、神の力ですから、ただものを切るだけじゃなくて、悪霊を切り払うことも出来るわけですよ。そのため、そういう剣は一般的に神の剣、すなわち『神剣』と呼ばれます」
「じゃ、この剣もそういう『神剣』の一種だと……?」
 その思いがけない話に、祐一が思わずひざを突き出して訊ねると、浦藻はすぐに困ったような顔つきとなり、
「いえ、本来ならそう言いたいところなんですが……残念ながら、そうは問屋が卸してくれなかったようでして」
「えっ、ってことは……」
「はい……いくら丹念に見てみても、『気』らしいものはひとつも感じられないんですよ」
「………」
「まあ、くだくだしく説明しても分かりづらいので、てっとり早く本物と比べてみましょうか」
 そう言うと、浦藻は真琴を呼び寄せ、社務所の中から一振の剣を持って来させた。
「これは、廃絶の折に失われた、社宝の剣の模造品です。今のは昭和の頭に造られたものでして、私の曾祖父によって『気』が入れられております」
 そう説明すると、先ほどと同じように二ツ折の懐紙を当てて、軽く引いてみせる。
 これは前の三振とは違い、刃を動かすのとほとんど同時に、すぱりと切れてしまった。
「それでですね、『気』はそのままでは普通、私たちのように妖力のある者にしか見えません。でも、こうすれば……」
 そう言うと、浦藻は社宝の模造である剣を抜いて眼の前にかざし、左手から狐火を出して後ろから刀身を照らしてみせる。
 すると、青白い狐火の光に照らされて、剣の刃に当たる部分の周囲に紫色のオーラが浮かび上がった。
「あ、見えてますね、よし、よし……。そちらは、見えましたか?」
 オーラの見え具合を自分でも確認しながら、浦藻が剣の向こう側の一同に問いかける。
「見えてます、紫の光が……」
「そうですか、よかった。この光が、神霊の力の反映である『気』ですよ。……それじゃ、次は舞さんの剣を見てみましょうか」
 そう言って、浦藻は持っていた剣をさやに納め、今度は舞の剣にも同様の作業をほどこしてみせた。
 しかし、いくら狐火で裏から照らしてみても、刃が鋼の色に鈍く光るばかりで、紫の光など一向に見える気配がない。
「お分かりになりましたか?……つまりは、こういうことなんですよ」
「………」
 百聞は一見に如(し)かず、とばかりに眼の前でただの模造剣であることを証明された一同は、そのまま黙りこんでいたが、ややあって、美汐が、
「でも、そうなると、どうして『魔物』が斬れるのか、という問題になってしまうような気がするんですが……」
 恐る恐る言い出した。
「そう、そのことなんですよ。どうしても、その理由が分からないんです」
「環境による、ということはありませんか?たとえば、神の『気』がとりわけ多い場所とか……」
「いえ、神の『気』が満ちている環境であれば、確かに剣の『気』を助ける力となり得ますが、それとて剣自体が『気』を帯びていなければ無理な相談です」
「………」
 一同は、再び沈黙した。
 と、その時、剣の所有者である舞が不意に口を開いた。
「……でも、私はこの剣でずっと『魔物』を斬り続けて来たん、です。それは、どうなるん、ですか」
 相も変わらず抑揚が少なく、訊ねているのか責めているのか分からない彼女の言葉に、浦藻は、
「どうなる、と訊かれましても……先ほども申しました通り、この時点ではそれはもう『分からない』としか言えませんよ。時間さえあれば、舞さんの納得の行くように調べてみたいのですが、それは無理ですよ。今日かたをつけないと、舞さんとしても困るのですよね?」
「え、ええ……」
「それなら仕方がないですよ。理由はどうあれ、今は『切れる』という事実、それだけで充分と考えないと……」
 盆の窪に手をやりながら、困ったように答えた。
「まあ、そもそも剣を拝見させていただいたのも、舞さんが剣を持っていると聞いて、もしかすると殺生石が落ちた際に消えたとも砕けたとも言われている社宝の剣ではないか、と思ったからでして……。お気を悪くされたら、申しわけありませんでした」
 そう言って頭を下げる浦藻に、舞は軽く手を振ると、
「……私こそ、力になれなくて、ごめん、なさい」
 たどたどしい口調で丁寧に謝った。
 祐一は、その様子を微笑ましく見ていたが、ややあって、
「それで、舞。これからどうするんだ?夜までは、まだ随分あるけど……」
 話を変えて訊ねた。
 その問いに、舞は、
「……やることは一つ。剣の練習」
 きっぱりと答えてみせる。
「そうか……やっぱりな。でも、俺はいいけど、他のメンバーはどうするんだ?」
「……全員はやらないでいい。これ以上迷惑かけたくないし、それに戦いの場に七人もいても邪魔なだけだから」
「なるほど」
 正論である。
 いくら共通の目的を持つ仲間とはいえ、あの狭っ苦しい校舎の廊下にそれだけの人数、しかも戦いについては素人の人間ばかりが入りこめば、彼らを守る手間だけで精一杯の状態になってしまうことは、火を見るより明らかであった。
 そう思った祐一は、ひとつうなずくと、
「じゃ、何人ならいいんだ?」
「……三人」
「三人か。俺と、舞と……あと一人は?」
「……佐祐理」
「えっ……?」
 その言葉を聞いた瞬間、祐一は耳を疑った。
 それは名前を呼ばれた佐祐理も一緒だったらしく、
「えっ……舞、本当にいいんですか?」
 信じられないという声でしきりに訊ねている。
 その佐祐理に、舞はこくりとうなずくと、
「……仕方ない。今度ばかりは、佐祐理、来るなと言っても聞かないだろうから」
 どこかあきらめたように言った。
「いいんですか……ありがとう、舞」
「……その代わり、私たちの足手まといにならないように、しっかり練習してもらう」
「分かりました。佐祐理、頑張りますね」




「……うう、寒っ」
 いつもの横穴から妖狐の洞穴を出た祐一は、開口一番、身を震わせながらそうつぶやいた。
 既に時刻は午後十時。とうに夜のとばりは降り、早春の夜独特の、冬の色を残した冷気があたりに立ちこめている。
「あははー、仕方ないですよ。こっちじゃ、三月の末はまだ冬みたいなものですから」
「……はちみつくまさん」
「そうか……」
 佐祐理と舞の言葉に、祐一は、この南森へ来た日に駅前広場で二時間も待ちぼうけを食らった時の身を切るような寒さを思い出し、なおも身を震わせる。
 と、その時、そんな祐一をよそに、秋子が、
「さて、それじゃ……ここで別れましょうか」
 話を切り出した。
 実はあれから、剣の練習をしている合間などに話し合った結果、秋子・名雪・美汐が秋子の自動車に乗ったまま校門で待機し、あゆは非常時の連絡(つなぎ)としてここに残ることになった。
 むろん、残る祐一・舞・佐祐理は、校舎に行って実際に戦う組だ。
 これは当初、秋子の車に乗るという話もあったのだが、定員の問題があったため別行動となった。さらに場所的に電車で行くにも遠く、乗合で行くにも早くに終わってしまって使えないので、やむなく歩いていくことになったのである。
「それじゃ、また。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」
 そんな声をかけ合いながら、二組は林の前の道で別れた。
 先ほど、家から晩飯代わりの弁当を持って来たついでに乗ってきた軽自動車が、待機組の三人を乗せて走り去るのを見送ると、祐一は、
「さて……行こうか」
 二人に声をかけた。
「あははー、そうですね」
「………」
 無言で歩き始めた舞の後を追う形で、祐一と佐祐理も歩き始める。
 歩きながら、祐一はふと空を見上げた。
 眼の前には、月夜独特の、灰色でありながらどこか青みを残した空が、ぽつりぽつりと心細げに家々の影を映し出す街燈の影を見下ろすように広がっている。
 その中に、弦の少したわんだ上弦の月が、薄曇りの雲の中に心細げにただよい、三人の影をひび割れたアスファルトの上に映し出す。
 そして左手には、月の光を背にして、ものみの丘の稜線が、切り紙のごとく鋭く、黒々とそびえ立っている。
 その闇が、かの梶井基次郎が、
「黒ぐろとした畏怖」
 と評したがごとく、何か見る者を吸い込むかのような迫力で、三人の横から迫ってくるのだ。
 誰も、何も語ろうとはしない。
 それは、戦いの前の緊張のためであったか、さもなくば、闇の圧力のためであったか……。
 やがて三人は、丘の西端へ出た。
 そこから電車通りに出る三人の横を、「終車」の赤いプラスチック板を窓にぶら下げた寮荘(りょうしょう)行の赤電車が、高らかな音を立てて通り過ぎてゆく。
 それと入れ違うように三人は足を南へ向け、物見町の交叉点へ出た。
 そしてそこを右へ曲がり、南森川の方へ歩き始める。
 既に全部の車が帰ったとみえ、固く門を閉ざした交通局の前を通り過ぎ、南森川にかかる物見橋を渡った一同は、国道と交わる交叉点を直進して、そのまままっすぐ歩いて行く。
 この道は、祐一・名雪と舞・佐祐理の共通の通学路で、物見地区の対岸にあたる遠部(おべ)地区のほぼ真ん中を貫き、西の郊外の硯石(すずし)まで行っている。
 あとで聞いた話によると、いつも佐祐理は舞を迎えに行くために橋場町の南にある彼女の自宅を回るべく、区画の東側にある道をまっすぐ下り、そこから右に曲がって舞を拾った後、橋場橋の東詰を右に曲がって川沿いの道に入り、さらに左に曲がって物見橋を渡ってこの道に入るという、祐一たちからすれば驚くべき回り道をしているという。
 逆に言えば、それほどのことをやっても決して遅刻しないだけの時刻に二人が起きている、ということにもなるわけで、毎日のように自分の朝の弱さのせいで遅刻している名雪が聞いたら、
(さぞかし耳が痛かろう)
 と思って、祐一はひとり笑いをかみ殺したものだ。
 話を元に戻そう。
 このあたりは、南森の市街地からみて西北に少し外れたところにあたる場所で、明治に国道が開通し、市街地が広がったことの影響を受けてなしくずしに住宅地となっており、いかにも郊外、というイメージは薄い。
 しかし、それも数百メートルほどの間のことで、しばらく行くと急に街並みが途切れ、ばっと視界が開けて来る。
 この周辺を地元では俗に「大師原」(だいしがはら)という。
 大師原は、いわゆる「お大師さん」の門前周辺の大師堂地区西部と、その北側の遠部地区南西部を包括した広大な地域で、ここでは大師堂地区に鎮座し地元で「南森大師」として親しまれている古刹・南森山宗光寺(なんしんざんそうこうじ)がその「お大師さん」にあたる。
 宗光寺は延暦年間(七八二〜八〇五年)、かの弘法大師空海によって開基されたと伝えられ、創建当初から絶大な信仰を受けて来たが、周辺人口が少なかったために門前町があまり発達せず、寺のある周辺を除くほとんどの場所は、近世まで茫洋たる萱原の中に雑木林が点在するばかりであったという。
 しかし江戸時代に入ってから、往古「南森駅(みなもりのうまや)」と称していた南森川東部の宿駅が幕領の「南森宿」として整備されるに伴い、農業的基盤を確保するべく、享保十五(一七三〇)年より北部を中心に鍬が入れられ、広大な麦畑と野菜畑を持つ一大新田地帯となった。
 戦後以降宅地化が進み、その面積もかなり減ったが、今でも幹線道路から少し奥に入れば、はるか郊外の方まで見通せるほどの大きな麦畑が点在しているのである。
 ちょうどこの道沿いも、そんな場所だ。
 黄金色の穂の中を、二車線ながら実質一車線半ほどの幅しかない細い道がまっすぐ延びて行く。
 農地とあって、道には月の光と時折思い出したようにある街燈以外には、ろくに明かりもない。
 すれ違う人や車とてなく、ただ闇の中に風の音と、それになびく麦の穂のざわりざわりという音が響くばかりだ。
 その中を、剣を背に担いだ舞が、先達となって歩いて行く。
 その姿は、二ヶ月前のあの夜、初めて校舎で会った時のように何とも言えず幻想的で、街燈に照らされてはまた闇に消えて行くありさまさえ、まるでこの麦畑がひとつの舞台になって、彼女がそこでスポット・ライトを浴びているかのように思われた。
 ほどなく、高いフェンスに囲まれた三階建ての学校が、その舞台の中の大道具と言わんばかりに、麦畑の中に忽然と姿を現して来る。
「お、来てる来てる」
 祐一が、南向きの正門の前に見慣れた軽自動車が止まっているのに気づき、手を上げると、ちかちかとバッシングが返って来た。
 近づいて行くと、秋子が運転席の窓を開けて待っていた。
「すみません、随分待ったでしょう?とろとろ歩いてたもんで……」
「いえいえ、構いませんよ。あそこからじゃ、遠かったでしょうから」
「それはそうと……二人は?」
「ええ、後ろにいますよ」
 そう言われて後部座席をのぞきこむと、美汐の肩に名雪が寄り添うようにして眠っていた。
 どうやら美汐も少し眠っていたようで、ぼんやりと眼をこすっている。
「……あ、みなさん、やっといらっしゃいましたか」
「ああ。遅れてすまん」
「ちょっと待ってくださいね……水瀬先輩、水瀬先輩、みなさんがいらっしゃいましたよ」
 そう言って揺り起こすと、今まで寝息を立てていた名雪が、珍しく眼を覚ました。
「……ふわ」
「おお、起きたか。悪いな、遅れちまって」
「……わたし、野蒜(のびる)食べれるよ」
 線眼のまま寝ぼけてわけの分からないことを言い出す名雪に、祐一が、
「こんな時まで寝ぼけてんなよ、お前は」
 額のところをぺしりとたたくと、それでようやく眼が覚めたらしく、
「うにゅ……あ、ああ、祐一?ごめん、寝ちゃった」
 あわてて手を振って取り繕ってみせる。
「まあ、いいよ。つき合わせたのは俺たちなんだし……」
「祐一さん、そろそろ行かないといけないんじゃないですか?」
「あ、そうだ……もうそろそろ出る時刻だな」
 そう言って後ろを振り向くと、舞がこくりとうなずいた。
「じゃ、行ってきます。何かあった時は、携帯電話の方にかけますので……」
「ええ、分かりました。……健闘を祈ります。でも、くれぐれも無茶をしないで下さいね」
「ありがとうございます。……それでは」


 待機組に別れを告げ、正門を入った三人は、左側にある校舎の昇降口から中に入った。
 以前、祐一が舞の助っ人をしに来ていた時もそうだったのだが、どういうわけかこの学校、夜だというのに入口が施錠されていない。
「まったく、相変わらずだな、ここは……私立だからって鍵まで自由にするこたねえだろうに」
 三人の学校――福南学園高校は、南森市の北の郊外・近津道(ちかつみち)にある福南大学の完全な附属校である。
 ここでの成績により受験なしで大学に上がることが出来たり、地方の高校にしてはかなり自由な校風であったりすることから、近郷近在の受験生の人気も非常に高い。
 実際祐一もそれを鑑みてこの学校を選んだのだが……どうもその分、妙にいい加減なところもあるようだ。
「ま、開いててくれなきゃ困るけどな、今は……」
 そうつぶやく祐一をよそに、舞はさっさとたたきを上がり、
「祐一、佐祐理……そろそろ、準備して」
 冷静な声で言う。
「あ、ああ。抜いとくよ」
「えっ、もう抜いておくんですか?」
「ああ。こうやって話している間に、不意打ちを食らわして来ないとも限らないからな」
「はえー……怖いですね」
「大丈夫だよ。いざとなったら、俺たちで何とか防禦するから」
「……そう。とにかく、『魔物』が襲って来てどうにも防げなかったら、とりあえず避けて逃げればいい」
「うん、分かったよ……って、抜くんでしたよね」
 そう言って、やや頼りないながらも剣を抜く。
 ちなみに、これらの剣の中に、先ほど浦藻が持ち出して来た模造の神剣はない。
 浦藻が念のためと勧めるのを、舞が、
「……私はこの剣の方がいいから」
 と断って来たためである。
 どうやら舞嬢、自分の剣を「ただの刃引きの剣」と言われたのが、よほど悔しかったらしい。
 この舞の妙な意地が、この後いい意味でも悪い意味でもこの一件に影響を与えることになるのであるが、ま、それはそれとして……。
 三人は、舞の先導のまま、一階の廊下へと向かった。
 月の光が窓からさしこむ中、冷えきった亜麻仁板(リノリウム)の上をかつかつと歩き、「魔物」が一番出やすい社会科資料室の前まで来る。
 それに気づいて、祐一が、
「さて、やっこさん、今日もここから出るかな……」
 ぽつりとつぶやいた時だ。
 舞が、
「……叱(し)っ!」
 厳しい口調でその言葉を遮った。
 そして、剣を中段に構えたまま眼を閉じ、耳を澄まし始める。
 こういう時は、「魔物」の気配が、
「近づいている……」
 ということなのだ。
 それを感じた二人が、かたずを飲んで見守っていた時……。
 突如、どーんと天井が轟いたかと思うと、そこから巨大な何ものかが、舞の頭上に落ち込んで来たものである。
 「魔物」だ。
「き、来ゃあがった!」
 祐一の叫びをよそに、舞は左足(さそく)を引いてふんばると、
「……ぬ!」
 剣を斜め上段に構えてそれを受け止める。
 そして思い切り突き放すと同時に、左足をさらに引き、
「……鋭(えい)!」
 気合い声と共に剣を斜めに振り下ろした。
「やったか!?」
「……いや、駄目」
「はえーっ……」
 突然の戦闘開始に、佐祐理が呆然としているのを、舞が、
「……佐祐理、何してるの!どこから襲って来るか分からないのに!」
 いつになく厳しい言葉を投げつける。
「え、あ、はい、え、えーと……」
「佐祐理さん、俺の横にぴったりついてなよ」
 混乱状態の佐祐理に、祐一がそう優しく言った時だ。
「ぐはぁっ!」
 その祐一の背に、出し抜けに衝撃が走った。
 どこをどうして逃げたものか、舞の白刃を逃れた「魔物」が、背後から体当たりを食らわして来たのだ。
「……くっ!」
 しかし間一髪、躰(からだ)を左に翻して躱(かわ)し、体勢を立て直したあと、
「曳(えい)!」
 大上段から剣を眼の前の空間に振り下ろす。
 が、これも手応えはない。
「くそっ……だめか!」
 だが、祐一がそううめくのをあざ笑うかのように、「魔物」の気配は窓際にいた佐祐理の方へ向かって行く。
「えっ、えっ……?」
「……佐祐理、かがんで!」
「は、はい」
 舞の声に、佐祐理はとっさに両手で頭を押さえてかがみこむ。
 その頭上を、「魔物」の気配がすさまじい勢いで通り過ぎ、思い切り窓にぶつかったその瞬間である。
 ぐわしゃあん、と耳をつんざくような音が響いたかと思うと、そこの窓のみならず、十列並んだ周囲の窓までもが一斉に割れたものだ。
「………!」
 佐祐理の顔色が、声にならない叫びとともに真っ青になり、冷汗が滝のように流れ出す。
「佐祐理さんっ!」
「……佐祐理っ!……くっ!」
 すっかりおびえきった佐祐理に二人が駆け寄ろうとする間にも、「魔物」は舞の足をすくうように下から襲いかかって来る。
「舞っ!」
 祐一は、舞がそれをのけぞるようにして左に躱すのを見ると、彼女の右側を駆け抜け、
「曳!」
 「魔物」の去った空間に剣を突きこんだ。
「畜生、またかすった!」
 再度の空振りで祐一が歯噛みをしている間に、舞は窓際で縮こまっている佐祐理の許へ駆け寄り、防禦態勢に入る。
「舞!佐祐理さん!大丈夫か!?」
 「魔物」の気配が自分の周囲から消えたのを確認して、祐一が二人に叫ぶと、舞のうなずきと共に、
「は、はい……何とか」
 佐祐理の弱々しい返事が返って来た。
「……くそっ!あん畜生、どこ行きゃあがった!」
 先ほどの屈辱を思い出し、祐一がいきり立って「魔物」の気配を探していると、不意に、
「……祐一、祐一」
 舞が声をかけて来た。
「何だ、舞、どうした?」
「……気配が消えた」
「えっ……本当か?」
「……はちみつくまさん」
 その問答に、舞の後ろにいた佐祐理が、
「ふぇ……じゃ、『魔物』さんはいないの?」
 そう訊ねると、舞は重ねてうなずき、
「……そう。少なくとも、この廊下にはいない」
 冷静に答えてみせる。
「じゃ、じゃあ……もう、安心ですね」
「いや、油断は禁物だ。今までも、いなくなったと思っていたら教室の中からどーん、なんてのはいくらでもあったからな」
「……はちみつくまさん」
「ふぇ……」
 再び顔をこわばらせる佐祐理を、二人は背中にかばうようにして窓際へ寄り、剣を構える。
 そうして、じりじりとするような時間が十分ほどすぎた時だ。
 実に意外なところから、「魔物」の出現を告げる音がした。
 三人の頭のはるか上、校舎の上の方で、どがしゃあんと硝子が束になって破裂するような音が響いたのである。
「に、二階か!?」
「……いや、違う!恐らく……三階!」
「何だって……!?」
 舞の推測に、祐一は思わず眼をむいた。
「そんな馬鹿な!今まで、あんなところに出たことなかったんじゃないのか!?」
 このことである。
 先ほども少し触れたように、「魔物」の出る場所というのは大体決まっている。
 その場所は大抵の場合廊下、それも一階か二階で、それ以上の階には決して出ないということが、舞の証言によって明らかになっている。
 その原則を破る突然の出来事に、さすがの舞も狼狽を隠せない。
「……そ、そう、そう」
「じゃあ、何で!」
「……そんなこと言われても、私にも分からない!」
「とにかく、三階へ行こう!」
 そう言って階段の方へ駆け出すのへ、佐祐理が、
「ふぇ、佐祐理はどうしたら……」
「いいから、佐祐理さんも来て!」
「で、でも、佐祐理、足手まといに……」
「それ以前に、一人でおいてけるわけないだろ!……な、舞!?」
 祐一の問いかけに、舞がこくりとうなずく。
「ともかく、早く……」
「ふ、ふぇ……」
 なおもためらう佐祐理を引きずるようにして、二人は長い階段を駆け上がる。
 そうしてようやく三階の廊下にたどり着いた時、祐一は、
「こ、これは……」
 その惨憺たるありさまに瞠目した。
 無理もない。窓硝子は廊下の窓から教室の扉ののぞき窓までことごとく破壊され、場所によっては窓枠がねじ曲がっているばかりか、コンクリートの柱の角まで欠けてしまっているのだ。
 が、次の瞬間、舞が、
「……新しい『魔物』!」
 戦慄の表情を浮かべて言ったのに、祐一はさらに驚いた。
 この、「魔物」も比べものにならないくらいの破壊行為を行ったやつが、である。
「な、こ、これが、新しい『魔物』の力だってのか?」
「……そ、そう、ここまで強いのは、めったに出ないけど」
 普段出ているものも相当に手強いのだろう。舞は、唇を噛んで震えている。
 と、その時だ。
 廊下の奥から、びしいん、という奇妙な音が響いたかと思うと、どかどかと床を踏み鳴らして、何ものかがこちらに近づいて来た。
「………!」
 それを見て、舞と祐一はあわてて剣を構え、迎撃の体勢に入る。
 その間にも、「魔物」は地響きを轟かせながら猛然と突き進んでくる。
 そのあまりの迫力に、祐一が、
「う、うわ……」
 思わず悲鳴を上げそうになった。
 が、次の瞬間。
 傲然と突き進んできた「魔物」が、進路を変えて祐一の右側を通り過ぎ、そのまま後ろで佐祐理を守っていた舞の右側につくと、そのまま二人の周りをぐるりと一周して、そのまま後ろへ去って行ってしまったのである。
「えっ……?」
 てっきり攻撃をしかけて来るものと思っていた祐一は、虚を衝かれた形となり、呆然と二人の方を見た。
 それは二人の方も同じだったようで、今まで剣を構えていた腕をだらりと垂らしたまま立ちつくしている。
 引き返してくるかと思ったが、その様子もない。
 その状況に、祐一は、
「何だ、はったりか……?」
 何とも拍子抜けしたというような声をあげたが、すぐに真面目な顔となり、
「おい、大丈夫か、二人とも」
 惚けている二人の方へ声をかけた。
 が、その声は、
「……『魔物』が近づいている」
 という舞のうめくような声に遮られた。
「えっ……!?」
「……『魔物』の気配が、私のすぐ後ろでする」
 この言葉に、祐一は首をかしげた。
 舞の言うような気配など、
「微塵も感じない……」
 のである。
 むろん、いつも戦っている舞に比べ、祐一の勘が鈍いのは否めない。
 だが今、彼と舞の距離は、五メートルほどしか離れていないのだ。
 その至近距離で、あれほどの力をもったものの気配を感じないなどということがあるだろうか……。
「ちょ、ちょっと待てよ、舞……」
「……いいから、構えて」
「でも……」
「……いいから!」
「うっ……分かったよ」
 舞にぴしゃりと決めつけられ、祐一は戸惑いながらとりあえず剣を構えた。
「……来た」
 相変わらず気配を感じないことに不審を覚えつつ、舞の言葉を頼りに「魔物」を待ち受ける。
 と、その時、舞が、
「……はっ!」
 急に躰を翻し、十メートルほど後ずさったかと思うと、こちらに向かって走り出す。
 が、その方向が、「魔物」の消えた廊下の奥ではなく、少し右にずれていたのを、祐一は確かに見た。
 その様子に、祐一が直感的に異常を感じた次の瞬間、
「……鋭っ!」
「きゃあっ!?」
 舞の放った裂帛の気合い声と、佐祐理の絹を裂くような悲鳴が同時に廊下に響き渡った。
 何と舞は、剣を構えたまま佐祐理に向かって突進し、ほとんど斬りつける勢いで彼女の横を通り過ぎていたのである。
「な……」
 あまりの出来事に、祐一は一瞬言葉を失ったが、すぐにことの重大さに気づき、佐祐理に走り寄ると、
「おい、舞!どういうつもりだ!」
 彼女をかばいながら批難の声を上げた。
 しかし、その声にも舞は、剣を納めることなく、じりじりと近づいて来る。
 そして、
「……祐一、何で『魔物』をかばうの」
 信じられないことを言い出したのだ。
「なっ……!?何を言ってるんだ、これは佐祐理さんじゃないか!」
 凝然としながらも言い返すが、舞は、
「……違う、『魔物』。『魔物』は斬る、斬る……」
 うわごとのようにぶつぶつとつぶやくと、再び後ずさった。
 それを攻撃の予兆と見た祐一は、
「危ないっ!」
 とっさに佐祐理をかばって廊下の奥へ逃げ出そうとした。
 しかし、舞は信じられないスピードでそこに追いすがると、
「……鋭っ!」
 すざまじい勢いで剣を振り下ろして来た。
 間一髪かわしたものの、その一振りは、
(まさに必殺の一刀……)
 というべきもので、その太刀風だけで祐一を慄然とさせるに充分なものであった。
(こいつ……本気で佐祐理さんを斬ろうとしてる!)
 このことである。
 冗談ではない。いくら刃引きとはいえ、鉄の棒に変わりはないのだ。
 そんなものをあんな猛烈な速度でぶち当てられた日には、肉ごと骨が砕けてしまう。
 それなら、いっそのことすぱっと切れてしまった方が、どれだけましなことか……。
 ここに至って本格的に生命の危険を感じた祐一は、舞が体勢を立て直さないうちに、佐祐理を連れて逃げることにした。
 しかし、階段を下へ降りようとした祐一の前に、どこをどう走ったものか、舞が立ちふさがる。
「くっ……」
「……『魔物』は斬る、『魔物』は斬る、『魔物』は斬る……」
 冷たい声で同じ言葉を繰り返す舞の姿を、踊り場の窓から差しこんだ月の光が映し出す。
 明らかに、眼の焦点が定まっていない。
 理由は定かではないが、とにかく正気でないことだけは確かだろう。
 そう考えている間に、「殺戮機械」となった舞が、再びその兇剣を振り下ろす。
「……ぬっ!」
 祐一がその剣を、上へ行く階段に飛び乗って躱した、その時である。
 祐一の背後に隠れて小さくなっていた佐祐理が、突然、
「……祐一さん、どいてください」
 と言い出したのだ。
 この発言に、祐一はみたびぎょっとなった。
「何言ってるんだ、佐祐理さん!自殺行為だぞ!」
「……いいんです……佐祐理は、罰を受けなければいけないんですから」
「ば、罰!?何のことだ、佐祐理さん!」
「ああ……やっぱり、恨んでいたんですね、佐祐理を……」
「佐祐理さん!しっかりしろ!」
「さあ……罰を与えて、殺して……かずや……」
「佐祐理さんっ!」
 悲鳴に近い声を出しながら、祐一は佐祐理を揺すったが、佐祐理はなおも支離滅裂なことを口走りながら、自ら舞に斬られようとする。
 それを必死で背後に押さえつけている間にも、舞が下からじりじりと剣の切先を鼻先へ突きつけて来る。
「くそっ」
 気がつくと、屋上へ通じる扉がすぐ後ろまで迫って来ている。
 祐一はとっさにその扉を開き、屋上へ飛び出さんとした。
 あわよくば、この扉で、
「舞を閉め出してしまおう」
 との考えがあっての行動だったが、舞との距離が近すぎて閉め出すことが出来ず、結局屋上への侵入を許してしまった。
 そうして、じりじりと後退を続け、屋上の中程まで来た時、突如として舞が腰をかがめたかと思うと、
「……とうっ!」
 何とそのまま三メートル近くも飛び上がり、剣を大上段に構えて二人の頭上から襲いかかって来たのである。
 ここまでやられては、防ぎようもない。
 この攻撃に、祐一が、
(もはや、これまで)
 と観念し、眼をぎゅっとつむった時……。
 がきぃん、と頭上で剣同士がぶつかり合う音がした。
「えっ……?」
 その音に顔を上げてみると、自分の頭のすぐ上に見えていたはずの舞の姿が見当たらない。
 あわてて周囲を見回してみると、全くあさっての方角で、床にめりこんだ剣の切先を抜こうともがいている舞の姿が眼に入った。
 しかも、後ろを振り返ってみると、さっきまで自分を押しのけようと暴れていた佐祐理が、眼を回して気絶しているのである。
「……さ、佐祐理さん、佐祐理さん!急にどうしたんだ、一体!」
 あわてて揺すってみるが、首ががくがく揺れるばかりで、一向に眼を覚まさない。
「……くそっ!何だ、何がどうなってるんだ!?」
 と、その時、突然の出来事に呆然としている祐一の耳に、すぐ右上から、
「はあはあ……ま、間に合ってよかったよ……」
 聞き慣れた声が響いて来た。
 慌てて声のした方向を見ると、何とそこには、一振の剣を持ったあゆが、肩で息をしながら立っているではないか……。
「あ、あゆ!?お、お前どうしてここに……?」
 突然現れた意外な人物の姿に、祐一が驚いた声で訊ねると、あゆは、
「式神のぴろちゃんの知らせで、浦藻さんの神剣を届けに来たんだよ!」
 息をつく間も惜しいというような口調で答える。
「し、式神!?あのうちの飼い猫のぴろがか!?」
「そうなんだよ!……って、そんなことより、この剣を!これさえあれば、あの二人を救えるんだよ!」
 早口でそうまくし立てると、あゆは、手に持っていた剣を祐一に渡す。
「……何だと?二人を救うって、どういうことだ!?」
「今、舞さんと佐祐理さんは、悪霊に幻覚を見せられているんだよ!だから、この神剣で二人を斬って、その呪縛から解放してあげないといけないんだよ!」
「な、何だって……俺にあの二人を殺せってのか!?」
「違うよ!これで斬っても、魔が祓われるだけでけがしないんだよ!……だから、思いっきりやっても大丈夫だよ!」
「そ、そうなのか?」
「祐一くん、しっかりしてよ!二人を救えるのはキミだけなんだよ!」
「あ、ああ……」
 そのあゆの激励に、最初は混乱していた祐一も何とか気を取り直し、佐祐理を床に寝かせて立ち上がると、神剣を中段に構える。
「早く、早く!舞さんの剣がもう抜けちゃうよ!」
 そのあゆの言葉が終わるや否や、ずぼっという鈍い音が後ろで響いた。
 そして、光るものが闇の中でゆっくりとその向きを変えたかと思うと、
「……鋭っ!」
 舞の躰もろとも、こちらに突進して来たのである。
「くうっ!」
 間一髪、腰をひねって祐一はそれを躱した。
 二人の体(たい)が入れ替わり、月の光が逆光となって舞の姿を黒く映し出す。
「くそ……」
 その思いがけぬまぶしさに祐一が思わず片眼をつむると、それを待ちわびていたかのように、
「……鋭っ!」
 舞が再び突っこんできた。
「うわっ……!」
 これも、前かがみになりながら辛うじて躱す。
 その逃げに徹する姿勢を見て、
「駄目だよ、祐一くん、逃げてばっかりじゃ!」
 頭上から檄を飛ばすあゆに、祐一は、
「そんなこた分かってるよ!つけこむすきがないだけだ!」
 思わず声を荒げた。
 実際、実戦でかなり鍛え上げている舞の手練(てだれ)ぶりは相当のもので、剣道の師範代もかくや……と思うほど、まったくすきらしいすきがないのである。
「くそっ……」
 あせりを隠せず、ぎりぎりと音がするほど烈しく歯噛みする祐一をよそに、舞はじりじりと間合いをつめて行く。
 また一歩、また一歩と近づけば近づくほど、その瞳の中の猛り狂った紅い光が、彼の脳髄に深々と斬りこんで来る。
 祐一の額から、冷たい汗が玉となってつーっと一筋流れた。
 と、その時である。
「……う、うーん……」
 背後で、かすかなうめき声が聞こえた。
 佐祐理が、眼を覚ましたのである。
 そして次の瞬間、その声に舞が反応し、まっすぐ相手を見据えていた視線を少しずらしたのを見て、祐一が、
「……すきあり!」
 普段の彼からは想像もつかないほどの大音声で呼ばわったかと思うと、舞の懐めがけ傲然と突っこんで行ったものだ。
「曳!」
「応(おう)!」
 烈しい気合声と共に、一合、二合と刃が斬り結ばれる。
 しかし三合目、勢いに乗った祐一が一歩前に進み出て、鍔競(つばぜ)りに持ちこんだところで、再び勝負が凍りついた。
「ぐうっ……」
「………」
 それを祐一は満身の力をこめて押し返そうとするが、押した分だけ舞の力に押し返されてしまう。
 そうして、まったく押しも引きもしない状態が五分ほど続いた時だ。
 急に後ろから、
「ま、舞、舞……」
「うぐぅ!だ、駄目だよ、佐祐理さん、そっち行ったら!」
 か細い佐祐理の声と狼狽したあゆの声が聞こえて来た。
 そのただならぬ様子に、戦闘中にもかかわらず祐一が横眼で後ろを見てみると、何と佐祐理が立ち上がり、ふらふらとこちらへ近づいて来ているではないか……。
「しまったっ!……佐祐理さん、来るな、来るんじゃないっ!」
 必死で制止するものの、その声も届いていないのか、なおもおぼつかない足取りでこちらへ近づいて来る。
 しかもその間にも、舞は手の力を全く緩めようとせず、腕も折れよと言わんばかりに恐ろしい力で彼の剣を責め立てて来るのだ。
(今度こそ、だめか……?)
 祐一の脳裡に、そんな考えがよぎる。
「舞、舞……」
 背後では、佐祐理がなおもうわごとのようにつぶやき続けている。
 その声は、いつしか舞の名を呼ぶ声から、
「た、助けて、助けて……」
 助けを求める哀切なものへと変わって行く。
 と、それを聞いた途端、舞が動いた。
 そして、
「えっ……?」
 突如緩んだ圧力に気の抜けた声をあげる祐一をよそに、舞は思い切り彼を突き放し、そのまま脇をすり抜けて後ろへと駆け抜けて行ったのである。
「げっ……しまったっ!」
 祐一がことの重大さに気づいたのは、それから間もなくのことだ。
(あいつ、また佐祐理さんを……!)
 このことである。
 そして、とっさに振り返り、佐祐理を助けようと走り出そうとした。
 が、ほどなくして、その足が止まった。
(………?)
 確かに眼の前では、舞が剣を中段に構えたまま、呆然と立ちつくす佐祐理と対峙している。
 しかし、佐祐理とみれば猛然と襲いかかっていた先ほどに対し、今度はどういうわけか、剣を構えたままきょろきょろと周りを見回すばかりだ。
 そうして何もない空間へ斬り込んでみては、手応えのなさにまたあたふたと頭(こうべ)をめぐらすのである。
 明らかに、何かを探しあぐねて、
(うろたえている……)
 のだ。
 その彼女が、いつもと違って完全にすきだらけであることに気づいた時、祐一は、
(今だ!)
 ばねに弾かれたようにその背(そびら)へ追いすがり、剣を大上段に構えて斬りかかった。
「………!」
 その不意打ちに、舞があわてて振り向こうとするが、既に遅い。
 そして次の瞬間、
「曳っ!」
 鋭い気合声と共にうち下ろされたその剣が、舞の胸から腹にかけて袈裟懸けに切り裂いていたのである。
「……むうん……」
 切り口から血汐の代わりにまばゆい光を放ちながら、舞の躰が倒れ伏すのと入れ替わりに前へ出ると、今度は硬直している佐祐理の腰を下からすくい上げるように斬る。
「………!」
 こちらは何も言わず、舞と同じように光を放ちながらゆっくりと床に倒れ伏した。
「はあ、はあ……こ、これでいいのか、あゆ……」
「……うん、これでもう大丈夫だよ」
 やや自信のなさそうなあゆの答えに、祐一はぜえぜえと喘ぎながらこくこくとうなずいてみせる。
 普段ろくに使わぬ膂力(りょりょく)を全開にしたせいか、
(動悸が止まってくれない……)
 のである。
 それでもどうにか剣をあゆに返すと、懸命に先ほど斬ったばかりの二人へ近づき、月明かりを頼りにつぶさに検分してみる。
「なるほど……確かに、傷はついてないな」
 仮にも剣で斬られたにもかかわらず、全く異状の見られない二人の躰にそうつぶやく。
「どうする?とりあえず下に降りるか?」
「うん、その方がいいんじゃないかな……こんな吹きっさらしじゃ寒いし、風邪ひいちゃうから」
 祐一とあゆはそんなことを話し合うと、二人を背負って下へ下りることにした。
「あゆ、大丈夫か?」
「う、うん……大丈夫」
 佐祐理を背負ったまま、明らかに大丈夫ではないという声であゆが答えた時だ。
「う、ううん……」
「う……」
 不意に二人が眼を覚ました。
「あ、あれ?祐一さん……?」
「……祐一、これは……」
 そう言ってきょろきょろと辺りを見回す二人に、祐一とあゆは、
「よかった……」
「うぐぅ、よかった……」
 思わず胸をなで下ろした。
 そして、背中から降りたがる二人を背中から下ろすと、
「祐一さん……佐祐理たち、一体どうしたんですか?」
「祐一、私、一体何を……?」
 まだ夢から醒めやらぬような眼で異口同音に当然の問いが飛んで来た。
 それに対して祐一が、三階のあまり損傷の激しくない場所へ一行をいざないながら、
「ああ……実はな」
 今までの経緯を話して聞かせると、二人は、
「はえー……幻覚を見せられていたんですか」
「……そんな、私が佐祐理を」
 衝撃を隠しきれない様子で言った。
 特に舞の方は、刎頸(ふんけい)の友たる佐祐理をこの手にかけそうになっただけに、青ざめたまま身を震わせている。
「それにしても……幻覚なんて、一体誰が?」
「……そりゃ、もうあれしかないだろうな」
「やっぱり、殺生石の手先、ですか……」
「恐らくは、な」
 「魔物」を討つべき舞が、逆に「魔物」に操られるなど、今までの戦いではあり得なかったことだ。
 それも、わざわざ佐祐理を襲わせるように仕向けたのだから、明らかに作為のにおいがすると言っていいだろう。
 図らずも、浦藻の心配が現実のものとなってしまったのである。
「……私はただ、ただ佐祐理が『魔物』に襲われているのを、助けようとしただけなのに」
 衝撃のあまり、祐一の話もろくに耳に入らない様子でつぶやく舞のそばに、佐祐理が寄ってその肩をしっかりと抱きしめる。
 その佐祐理に向かって、不意に祐一が口を開いた。
「……佐祐理さん、あんたは一体何の幻覚を見せられていたんだ?」
「はえ……?」
「いや、な……舞の場合はすぐに分かったんだが、あんたの場合は、何で斬られようとしたのか皆目見当がつかなくて、さ……」
「……え、ええ、それは」
 祐一の問いに、佐祐理は困り果てたような顔つきで口ごもりながら答えようとしたが、次の瞬間、
「……佐祐理、駄目。祐一も」
 舞が横合いから鋭い声で決めつけて来た。
「えっ……」
「……駄目、駄目ったら駄目」
 そう言って祐一を睨みつける舞を、佐祐理が、
「ううん、舞、いいんだよ……佐祐理は大丈夫だから……」
 必死にとりなす。
「……私、佐祐理が悲しむのは嫌」
「舞の気持ちも分かるけど……でも、祐一さんはお友達だし」
「………」
 その二人の押し問答を見て、祐一が、
「……なあ、佐祐理さん。何か話したくないようなことなら、別にいいよ」
 そう言って話を収めようとしたが、佐祐理は、
「いえ……いいんです」
 軽く手を振って否定してみせる。
 そして、顔をうつむけたまま深呼吸を一つして、
「実は……」
 覚悟したように口を開いた時だ。
 突如、背後でどたどたと階段を上る音が響いたかと思うと、
「やはり思った通りだ。君たちの仕業だったのか!」
 驚きに満ちた男の声が聞こえて来たものである。




「まったく、とんでもない人たちだ。特に川澄さん、あなたはこれで一度退学になりかけたくせに、まだこんなことをしているとはどういう料簡なんです?卒業生の中には、もうすぐ卒業だから何をしても責められないなどといって、机に落書きしたり教室のものをくすねたりする怪しからん連中がいるらしいが、これもそのつもりなのですかね……」
 闇の中、神経質な声でまくしたてるその男の声に、祐一は、
「ちっ……」
 躊躇することもなく鋭い舌打ちを飛ばした。
(蛆虫めが……よりによってこんな時に湧いて来ゃあがって!)
 このことである。
 そう、このしかめつらしい顔に、いかにも「優等生」と言わんばかりの銀縁眼鏡をかけた男子生徒こそ、生徒会長の久瀬進その人なのだ。
 この男が生徒会の権力を確実なものにするべく佐祐理を抱きこもうと企み、舞を「退学」の形で排除しようとしたことは既に話した。
 しかし、そんな真似をするような輩が、どだいまともな人間のわけがない。名雪や香里の話によると、久瀬は一年生の頃から何かというと親の権力をかさに着て威張り散らし、他の生徒たちを見下すような言動を続けていたため、一部の幇間(たいこもち)の連中を除いて、組の中で忌み嫌われていたという。
 そんな人間がよく生徒会長なぞになれたものだと思うが、立候補者が他にいなかった上、生徒会のことなぞに興味のない生徒が惰性で信任票を入れたため、結果的に権力の座に躍り出ることになったのだ。そのあまりに出来すぎたことの成り行きに、久瀬を嫌う者たちの間では、地元の有力者で学校に多額の寄附をしている親が金を積んで裏で票を操作したのではないか、という噂まで飛び交ったそうだが、真相はいまだに分かっていない。
 そしてその会運営も、親の権力をちらつかせて教職員を黙らせた上、巧みに校則や会規の網の目をすり抜けながら生徒会長の権限を振り回し、自分に反抗する者は全て真綿で首を絞めるがごとくねちねちといたぶった挙句、場合によっては追い出してそれで権力を固めるという、ほとんど独裁者並の悪辣極まりないもので、そのために理不尽な要求を飲まされた生徒や同好会も少なくないという。
 この話を聞いた時、祐一は、
「ふん……田舎大尽の息子風情が、お山の大将になって喜んでやがるのかよ。おめでてえ話だな」
 吐き捨てるように言ってみせたものだ。
 もっとも、彼のいた東京の永田町では、その「お山の大将」が雁首を揃え、騙りまがいのやり方で地方の利益を散々食いものにしていることを思えば、こんなことくらいかわいいものであるが、腹が立つのには変わりはない。
 さらに祐一は、舞が退学の憂き目に遭った時、佐祐理の頼みによって久瀬の許に直談判に行っているのだが、その時の嫌味ったらしく人を喰ったような相手の態度を思い出すと、今でも反吐(へど)が出るような思いがする。
 そんな彼が、久瀬を「蛆虫」呼ばわりするのは、至極当然のことであるといえよう。
 その思いから、祐一が我知らず久瀬のいる方を睨(ね)めつけていると、
「おや、君も一緒なのかい?確か川澄さんの退学の一件の時に首を突っこんで来た、相澤とかいうおせっかい焼きだったな。知り合い程度だというのに、あんな殴り込みをかけて来るとはどうも妙だとは思ったが、やはりぐるだったのか。しかも部外者まで入れて……。全く、誰も彼もろくな生徒がいないようだね、今年の我が校は」
 久瀬が眼を細め、あごを上げて小馬鹿にするように言い出した。
 その言葉に、祐一は相手の喉笛を手に持った剣でぶっ貫いてやりたい衝動にかられたが、まさかそんなことをするわけには行かない。
 それでなくとも、ある意味決定的とも言えるような現場を押さえられている状況なのだから、下手なことをすれば、
「こちらの不利になるばかり……」
 なのである。
 祐一は肚(はら)の中に煮えたぎる怒りを押し殺しつつ、鬼の首でも取ったように喜々として嫌味を並べ立てる久瀬を、歯も折れよと歯噛みしながら凝と(じっと)睨め続けていたが、ややあって、
「……で、これでどうするつもりなんだ、お前は」
 歯の間から絞り出すように、やっとそれだけ言った。
「どうするだって?愚問だね……それ相応の対応や処分をするに決まってるじゃないか。君だけじゃなく、川澄さんや倉田さんもだ。君は二人が卒業するから退学に出来ないだろうと高をくくってるだろうが、残念ながら我が校は附属校なんでね。先生方に申し上げれば、大学の方で危険分子として眼をつけてもらえるよう頼むことだって出来るし、場合によっては退学処分だって出来るんだ。君の方だって、新学期になったらすぐに生徒会で話し合いを設けた上で、かつての川澄さんみたいに退学処分を進言することになるだろうね。何せ、これだけの破壊活動をやってのけたんだから……」
「くっ……」
 予想通りといえば予想通りの答えに、祐一は顔を歪めて黙りこんだ。
 事情を説明したいのはやまやまであったが、この男に「魔物」だの何だのと言ったところで、「オカルト狂い」と一蹴されるのがおちだろう。
 そのことは舞と佐祐理にも分かっているらしく、唇を噛みしめたまま何も言おうとはしない。
 あゆの方は何か言いたげであったが、何が何だか分からない上、久瀬の高圧的な雰囲気に完全に飲まれていて、何も言えない状態になっている。
 まさに、万事休すであった。
 と、その時、久瀬が不意に一歩前に出た。
 そして、何をするのかと身構えた四人をよそに、
「……まあ、それはあくまでも、本来ならそうする、ということなんだがね」
 不可解なことを言い出す。
 この言葉に、四人が、
(………?)
 一様に首をかしげたことは言うまでもない。
 言葉面だけ見れば見逃してくれるかのようであるが、あの久瀬が、しかも仇敵扱いしてきた川澄舞の「破壊活動」の状況証拠をつかんで、ただでおくわけがないからだ。
 それでなくとも、久瀬の雰囲気はさっきと全然変わらぬ驕慢なもので、とてもそんな雰囲気ではない。
「……どういうことだ、それは?」
 不審と怒りがないまぜになったような顔で祐一が問うと、久瀬は、
「簡単だよ。その必要がないからさ」
 こともなげに答えてみせる。
 そして、
「なぜだ?」
 なおも反問する祐一を、久瀬は鼻でふんと笑うと、
「それはだね……」
 すこしもったいぶったような口調で言いさした後、
「……君たちはここで死ぬからさ」
 急にどすの利いた声で突拍子もないことを言い出したものである。
「なっ……何だと!?お、お前、一体……」
 ただならぬ久瀬の発言に、祐一が混乱の体となって一歩後ずさった時だ。
 不意に背後から、
「……『魔物』の気配!」
 鋭い舞の叫び声が飛んだ。
「な、何……こんな時に!一体どこだ!?」
 あわてて後ろを振り向き、そう問いかける祐一に、舞は、
「……違う!眼の前!く、久瀬……」
 震えた声で答える。
 その顔は、今まで見たこともないくらいに取り乱している。
 その尋常ならざる様子に、祐一が、
「久瀬の!?久瀬の後ろにいるのか?」
 思わず舞の肩に手をやって問いつめると、彼女は、
「……そ、そうじゃない!久瀬が、久瀬そのものが、『魔物』……!」
 とんでもないことを言い出した。
「く、久瀬が……?」
 とても信じられないような舞の発言に、祐一は半ば呆然としながら久瀬の方を振り向く。
 そして振り向いて、
「………!」
 凝然となった。
 彼の眼の前には、さっきと変わらず久瀬の姿がある。
 だが、その双眼が、闇の中で炯々(けいけい)と赤く光っているのである。
 明らかに、人の眼ではなかった。
「て、てめえ、い、一体……」
 あまりのことに祐一がしどろもどろとなって問うのにも構わず、「久瀬」がさらに一歩前へ出る。
 そして、その姿が壊れた窓から差し込む月明かりによって露わになった瞬間、
「きゃあっ……!」
「う、うぐぅっ……!」
 背後から佐祐理とあゆの魂消る(たまぎる)ような悲鳴が上がった。
「………!」
「………!」
 祐一と舞からも、声にならぬうめき声が上がる。
 今三人の眼の前にいる「久瀬」は、いつも見なれているあの「久瀬」ではなかった。
 血のごとくどろりと赤く、耳の近くまで切れこんだ眼に、狼のごとく鋭く牙の突き出した口。
 躰はかろうじて人間の形を保っているものの、めりめりと服が破れる音がしており、既に片腕は片肌脱ぎとなって筋肉を隆々とたくわえている。
 そしてその先には、禍々しいまでに研ぎ澄まされた鋭い爪が鈍い光を放っているのだ。
 まさに、古の絵巻に見られる「鬼」そのものであった。
「き、貴様、久瀬なのか!?」
 あまりの気魄に飲まれそうになりながらも、勇気をふりしぼって祐一が誰何(すいか)すると、「久瀬」は、
「久瀬……?確かに。少なくとも、この躰はそういう名前だったようだがな」
 久瀬の元の口調と打って変わった伝法な口調で、笛の音の狂ったような甲高い響きのかかった声で答える。
 そのむくつけき躰と余りにも不釣り合いな声色が、さらに三人を恐懼(きょうく)させた。
「ど、どういうことだ!?」
 なおも震える声で祐一が訊ねると、「久瀬」は、
「お前らは俺を『久瀬進』と思っているだろうが、そんなものは仮の姿だったということだ」
「じゃ……じゃ、『久瀬』は存在しなかったっていうのか?」
「いや、『久瀬進』は確かに存在した生徒だ。……ただし、二十年前にな」
「何だって!?」
「二十年前、この学校がまだ男子校だった頃、大規模ないじめ問題が発生してな。その時、二年だった『久瀬進』が、屋上から投身自殺をした。その姿を俺がもらい受けて、この学校に入りこむよすがとしたって寸法よ」
「な、な、何……!」
 あまりにも衝撃的な事実に、祐一が絶句していると、不意に背後から、
「そ、そんな……!じゃ、久瀬さんが佐祐理のお父様の知り合いの息子で、という話はどうなるんですか!?」
 佐祐理の叫ぶような問いの声が上がった。
「そんな記憶ひとつ、俺の妖術で何とでもなる。ちなみに、こいつはお前の親父の友達の息子じゃなくて、従兄弟だったようだぜ。……そういやお前の記憶には、いたずら半分で『昔許嫁にされそうになったことがある』ってのもついでに入れさせてもらったな。つまり、自分より十九も年上の親爺(おやじ)と、許嫁にされそうになってたわけだ。実現してたらさぞかし面白かったろうな、へっ、へへっ……」
 そう言って下品に笑う「久瀬」に、佐祐理は耳をふさぐと、
「い、いや!……言わないで!」
 その言葉を振り払うように、ぶんぶんと首を振る。
「て、てめえ……ふざけやがって!てめえの目的は一体何なんだ!」
 「久瀬」の下卑た言動にいきり立ちながら祐一が問うと、「久瀬」は、
「さっきも言ったろ。お前らを殺すことさ。俺たちの主人であり力の源である殺生石を、神職崩れの人間の分際で壊そうとしてる馬鹿どもをな。六百年前、天野宗右衛門のやつに封印された仕返しだ」
 にやにやと笑いながら答えてみせる。
「ということは、てめえが殺生石の手先……」
 祐一が、うめくようにつぶやいた。
 まさに今、浦藻が何度も心配し続けていた事態が、眼の前で起こっているのだ。
「じゃ……じゃあ、さっき舞と佐祐理さんを相討ちにさせようとしたのもてめえか!」
「そうだ。その舞って女(あま)は『魔物』と見りゃ飛びかかるような単細胞だから騙しやすそうだったが、佐祐理ってやつはおとなしい女だからちょいと難しそうだとは思ってたんだがよ。だが、どんなすました顔したやつだって、すねに一つは傷を持ってるもんだ。一年間、こいつに張りついて過去を少しほじくり返したら、簡単につけこみどこが見つかった」
「………!」
 その「久瀬」の言葉を聞いた途端、佐祐理がびくっと躰を震わせる。
 またしても佐祐理の「過去」に触れるような話の展開に、
「……だ、駄目!」
 舞が叫ぶが、「久瀬」はそれを楽しむかのようにちろりと見やると、
「おい、そりゃ話せと言ってるのと一緒だぜ。駄目と言われりゃ言いたくなるんだからな。……そう、確かにその佐祐理ってやつは非の打ちどころのない女だ。だが一つだけ、非があったんだよなあ、これが……」
 そう言うと、「久瀬」はなおも制止しようとする舞を無視して、得意気にべらべらとしゃべり始めた。
「こいつにはな、昔一弥(かずや)っていう、七つ年の離れた弟がいたんだ。だけど親父がどうしようもない天狗でな、いいとこの子供だからって、その辺の下々のがきとは遊ばせない、そういった連中が食ったり遊んだりするようなもんは与えないって感じで、ひたすら束縛するだけしまくって厳しく育てたらしい。で、その女も親父の言うことには逆らえねえもんだから、一緒になって縛りつけてたらしいんだな」
「……や、やめて、やめて下さい……」
「と、そうしてるうちに、その一弥ってがきは病気で臥せっちまった。その女はそこでようやく姉失格だったことに気づいて優しくしてやったが、もう後の祭りだ。そのうちがきは死んじまった。姉貴の優しさ充分にもらえないまんまな。五つになったばっかりだったってのに、かわいそうなもんだ」
「……やめて、やめ……」
「で、あとに残ったのは姉らしくしときゃよかった、優しくしときゃよかった、って今さらな後悔と罪悪感だけだ。それ以来この女はずっと、弟が自分を恨んでいる、自分は罰を受けるべきだと思ってたのさ。だからこそ、手首を切ったんだろ?」
 その言葉を聞いた瞬間、それまで小刻みに身を震わせながら必死に声を上げていた佐祐理が、ひときわびくりと大きく震え、そのままうつむいてしまう。
 祐一は舞と一緒に崩れ落ちそうになった彼女の肩を受け止めると、思わず、
「佐祐理さん、今の本当なのか!?」
 驚きを隠せない様子で問うた。
 その問いに、佐祐理は、
「……は、はい……中三の時に、一度だけ。心が、虚ろで虚ろで仕方なくて……」
 悲痛な声で答えてみせる。
 その答えに、祐一は絶句した。
 いつも「あははーっ」と明るく笑っていて、全く影らしい影を感じさせないこの人が、
(まさか、そんな過去を抱えていたとは思わなかった……)
 からである。
 そんな祐一の姿を、さも面白そうに一瞥しながら、
「残念ながら、その時は本望を果たせなかったがな。だから、その本望を果たさせてやろうと、弟に刺し殺される幻を見せてから死なせてやろうとしてやったんだ。親切だろ?は、はは……」
 いけしゃあしゃあと放言して下劣な哄笑をしてみせる「久瀬」に、佐祐理は、
「……やめ……や……」
 完全に床へ崩れ落ち、涙を流し続けている。
 しかし「久瀬」は、その佐祐理を鼻で嗤(わら)うと、
「ふん、泣けば何でも済むのかよ。まあ、おめえはそういう甘ったれた女みてえだからしかたねえか。第一、おめえが自分を名前で呼んだり男に誰かれ構わず敬語を使ったりと、はたから見りゃ馬鹿みてえなことをしてるのだって、何だかんだと理由をつけてるが、要は弟を苦しめた罪悪感から逃げ出したいだけじゃねえか。全く、馬鹿もここまで行きゃ立派なもんだぜ」
 なおも彼女を言葉の笞(むち)で打ちすえようとする。
 と、次の瞬間、佐祐理の肩を支えていた舞が、「久瀬」の方を詰と(きっと)睨みつけ、
「……違う!」
 斬りつけるような声で叫んだ。
「何が違う?お前だって聞いてんだろ、この話はよ。いくら友達だからって、事実をねじ曲げちゃいけねえなあ」
「……そうじゃない、お前が違う!」
「何だと?」
「……確かに佐祐理は、一弥に優しく出来なかった。それは、いけないことだったかも知れない。でもそれは、お父さんの力に縛られていた佐祐理には、仕方のないことだった。それに罪悪感から逃げ出したいと思うのは、誰だってみんな同じ。手首を切ったのは、いくら何でもまずかったと思うけど」
「ほう……じゃあお前さん、その女に非がないっていうのか」
「……非があるとかないとか、そういう問題じゃない。そんな論理に持ちこむお前が間違ってる」
 と、その時、反論を続ける舞に、佐祐理が、
「ま、舞……いいんだよ、かばってくれなくても……佐祐理は、『久瀬』さんの言う通りの、悪くてずるい子なんだから……」
 涙混じりの声で口をはさんだ。
 しかし、舞は彼女の方へ振り向くと、なおも毅然とした態度で、
「……佐祐理、惑わされちゃ駄目。こいつは、佐祐理の心の傷を弄んで楽しんでいるだけ」
 きっぱりと言ってみせる。
「でも……でも……」
「……佐祐理は弱い。私は結局、全てのことはみんなその弱さのせいだったと思う。でもだからって、それを責め立てたところで実りがあるわけじゃない」
「………」
「……今、佐祐理は――そしてお父さんも――苦しみながら、迷いながら必死で生き続けている。そうしていれば、いつかきっと佐祐理にとっても、一弥にとっても、一番幸せと思えるところへたどり着けると思う。そのことの方が、過去を責めることなんかよりはるかに大事」
「舞……」
 いつもと同じような、ぶつぶつとこま切れにしたような言い方だったが、その言葉は、まぎれもなく佐祐理を心の底から思う真情にあふれている。
 いたずらにとがめるのでもなく、いたずらに慰めるのでもない。真の親友としての忌憚なく、それでいていたわりに満ちた言葉であった。
 祐一は、普段我が道を走っている舞が、そこまで佐祐理のことを受け容れ、彼女のことについてしっかりと考えていたことに驚くとともに、まさに互いに頸(くび)を刎(は)ね合うても恨むことなき二人の友情に、緊張みなぎる戦場であることも忘れて心を洗われた気分になった。
 五日前、浦藻が盟神探湯(くかたち)の儀の荒療治を通じて、おのれの弱さを受け止めることの大切さを教えてくれた時の、彼の燃えるように真摯な色を帯びた双眸が、まざまざと眼の前によみがえって来る。
 それだけに、佐祐理の心の傷に塩を塗りこむような真似をしておいて、今もにやにやと薄笑いを浮かべながら二人を眺めている「久瀬」に対して、ふつふつと烈しい憤怒の情が湧き上がって来るのを抑えることが出来なかった。
 そして、「久瀬」が、
「おお、美しい友情だねえ……。これから死ぬってのに、ご苦労さんなこった」
 相も変わらず嫌らしい口調で言い出したのを聞いた時、その怒りが一気に爆発した。
「てめえっ……いい加減にしゃあがれっ!俺がその糞汚ねえ口をふさいでやる!」
 そう叫ぶと、祐一は発作的に剣を最上段に構えたまま跳躍し、「久瀬」へと肉迫する。
 しかし、次の瞬間、
「ふん……どっちの口がふさがるかな」
 「久瀬」の余裕たっぷりの声が聞こえたかと思うと、眼の前に巨体をさらしていた「久瀬」の姿が、かき消すように消えてしまったものである。
 当然、祐一の剣は月明かりの光の筋を虚しく斬っただけであった。
「なっ……!?」
 突然の相手の意外な行動に、祐一は瞠目したまましばらく硬直していたが、ややあって、
「随分驚いてるようだな。もっとも、俺が姿を消せることぐらい、さっきのことで分かっていてもいいはずだがな……」
 あざ笑うような「久瀬」の声がどこかから聞こえて来た。
「くそっ……汚ねえぞ、出て来ゃあがれ!」
「出て来いってか。全く、馬鹿な野郎だな。俺が姿を見せたまま闘ったら、お前らなんぞ一瞬であの世行きになっちまう。それじゃつまらねえから、せめてたっぷりあがくだけあがかせてから死なせてやろうってのに」
「て、てめえ……!」
 煽り立てるような「久瀬」の口調に、祐一はなおも激昂するが、いかんせん姿が見えないのではどうにもならない。
 彼は歯噛みをしながらぎろぎろと周りを見渡していたが、ややあって、
「……祐一!来る!」
 舞の鋭い声が背後から響いた。
 と、次の瞬間、どかあんという音とともに、祐一の横で半分倒れかけていた教室のドアがぶち抜かれたかと思うと、そこからなにものかが彼目がけて突っこんで来たものだ。
「ぐえっ!」
 突然のことに対応しきれなかった祐一は、その攻撃をまともに食らって横ざまに倒れこみ、廊下の窓枠にしたたかにこめかみを打ちつけてしまう。
 その姿に、
「……祐一!」
「祐一さん!」
「祐一くん!」
 すわ気絶か、と三人が一斉に叫ぶが、祐一は、
「……い、いや、大丈夫だ、ちょっと打っただけだから」
 こめかみをさすりながら立ち上がる。
 が、その手に、ぬるりとしたものが触れた。
 思わず手を月明かりの許にさらしてみると、人差し指と中指についた血の赤黒い色が、ぞっとするほどの鮮やかさで彼の眼に飛びこんで来る。
 祐一はこめかみを、血に混じって冷や汗がだくだくと流れるのを感じた。
 怒りにまかせて闘いに持ちこんだはよかったが、考えてみれば「久瀬」はさっきこの廊下で「魔物」など足許に及ばないほどの破壊活動をやらかし、さらに姿が見えないというのにあれほどの圧倒的な精神的重圧を覚えさせたやつなのである。
 どう考えても、状況は明らかに不利であった。
 と、その時、再び舞が、
「……また来る!」
 神経質な声で叫ぶ。
「ど、どっちからだ!?」
「……上……いや、左。……じゃない、右……後ろ……」
「おい、どれなのかはっきりしろよ!」
「……そんなこと言われても、動きが速すぎて分からない!」
 いら立ちながら怒鳴る祐一に、舞はいつになくあわてた声で言い返す。
 相手のあまりの力に、さしもの彼女も混乱の渦に巻きこまれてしまい、はっきりと「久瀬」の位置を言い当てられないのだ。
 と、舞が狼狽を抑えるように周りをせわしなく見回した時である。
 今度はずどんと天井が大きく轟いたかと思うと、そのまま舞と祐一の間の天井がずどおんと抜け落ちた。
「………!?」
 そして、間一髪飛びしさってそれをよけた舞が、そのまま着地することなく躰を「く」の字に曲げたまま宙に浮いたかと思うと、はるか向こうの床に思い切りたたきつけられる。
 しかも、その後ろにいた佐祐理を巻きこんで、だ。
「……ぐはぁっ!」
「きゃああっ!」
 絞り出すような舞の叫び声と、佐祐理の悲鳴が、半分外へむき出しになった廊下に響く。
 それを見た祐一が、
「舞!佐祐理さん!」
 反射的に叫び、二人の許に駆け寄ろうとするが、
「……なっ!?」
 突如足をすくわれ、斜め前に転んでしまった。
 あわてて立ち上がろうとするが、それも左脇腹に走った衝撃によって妨げられる。
「ぐうっ……」
 気絶するほどではないが、息をつまらせるに充分な痛みに、祐一は口角から胃液を飛び散らせて床に崩れ落ちた。
 それを見て、
「……ゆ、祐一……」
「祐一、さん……」
 先に倒れた二人も何とか起きあがろうとするが、どこかを強く打ちつけたらしく、躰が震えてなかなか足が立ってくれない。
 またたく間に半ば戦闘不能の状態となった三人に、あゆは、
「う、うぐぅ……祐一くん、舞さん、佐祐理さん……」
 完全におびえきって立ちつくしたまま硬直していたが、突然背後にぞっとするような感覚を覚え、直感的に宙へと飛び上がる。
 次の瞬間、自分の腹の下を、とてつもなく大きな何かが、すざまじい敏捷(びんしょう)さで駆け抜けて行くのを、彼女は確かに感じた。
「あ、危なかった……」
 難を逃れ、思わず安堵のため息をもらすあゆの耳に、
(……そうか、お前は霊体だったな)
 廊下の奥から出し抜けに「久瀬」の声が聞こえて来た。
 どうやら、姿を消している時の「久瀬」の声は、「人ならぬもの」には聞こえるものらしい。
「み、みんなをあんな目に遭わせて……許さないよ!」
(ふん、小娘風情が……たまたまよけられたくらいで、調子に乗るな)
 いきり立つあゆに、ぞっとするほど冷たい声が浴びせられる。
「う、うぐぅっ……」
(何だ、来ねえのか。じゃあ、こっちから行くぞ!)
 悔しそうに歯を軋ませるあゆに、余裕を見せつけるような「久瀬」の声が響く。
 と、次の瞬間、あゆは、
「………!」
 五体が烈しく戦慄するのを感じた。
 「久瀬」が、
(ボクの周りを回っている……)
 のである。
(ははは、どうだ。これで俺がどこから来るか、お前でも分かるまい……)
 勝ち誇ったように嘲る「久瀬」に、あゆは、
「ど、どうしよう……」
 わたわたと頭(こうべ)をめぐらすばかりだ。
 と、不意に狼狽しきったあゆの眼に、左手に持った神剣の姿が飛びこんで来た。
 本来ならじっくり見ている暇などないのだが、なぜかその時の彼女の眼は、吸いつけられるように剣の刃に向かった。
 先ほどから雲で隠れていた月が急に顔を出し、窓からあゆと神剣を照らし出す。
 その時だ。
(………!)
 あゆは、自分の見つめていた神剣の刃の上を、何かの影が通りすぎるのを確かに見た。
(『久瀬』の影……?)
 そうとしか思えない。
 あゆはなおもどうするか迷ったが、ここで何もしなければ、自分もまた「久瀬」の力に倒れてしまう。
 とにかく当たろうが当たるまいが、この影を頼りに、
(いちかばちか、やってみるしかない)
 のだ。
 そして、二度目に「久瀬」の影が刃の上を通り過ぎた時だ。
 あゆはとっさに空中で直立すると、
「……曳っ!」
 いささか頼りないかけ声とともに、眼をつむったまま思い切って斜め前の空間に剣を叩きこんだ。
 と、それと同時に、硝子の割れるような音がしたかと思うと、
「何っ……障壁を破ったか!」
 驚いたような「久瀬」の声がはっきりと聞こえて来た。
 その言葉に、恐る恐る眼を開けてみると、自分が剣で斬りこんだ場所に、「久瀬」の巨体が姿を現している。
「………!」
 突然のことに、あゆは反射的に後ずさったが、「久瀬」の方でもこう簡単に術が破れるとは思わなかったのだろう、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして立ちつくしている。
 そんな二人の姿に、
「あ、あゆ!お前……」
「……月宮さん!」
「あゆちゃん!」
 あゆが闘っている間に何とか立ち直ったのか、三人が一様に叫び、彼女の許に駆け寄って来る。
「こ、この剣で斬ったら、あいつの障壁(バリアー)が……」
 しどろもどろになりながらも説明するあゆに、祐一は「久瀬」の方を振り向く。
 「久瀬」は、相も変わらず落ち着かない様子でたたずんでいる。
(しめた……これで勝てる!)
 そう確信した祐一は、「久瀬」に向かって指を指すと、
「てめえ自慢の術が破れて驚いてるみたいだな。それもそのはず、こいつはてめえらの主人が潰した物見神社の神剣さ。その『気』で術が破れたんだ。ざまあみろ、これで五分と五分だ!」
 腹いせと言わんばかりに一気にまくし立てた。
 だがその時、彼はあわてていた「久瀬」が急に馬鹿にしたような笑みを浮かべるのを見た。
「何だ。何がおかしい!」
 勢いに乗って問う祐一に、「久瀬」は片手を顔に当て、さもおかしそうにくっくっと笑うと、
「五分と五分だって……?そいつを見ても、そう言えるかな?」
 斜め下、あゆの方を指差しながら言ってみせる。
 あまりの相手の豹変ぶりに、祐一は、
「何……」
 思わず「久瀬」の指差しているものを見た。
 見て、
「………!」
 声にならない叫び声を上げた。
 彼の視線の先には、あゆの握る神剣の姿がある。
 しかし、何かがおかしい。本来なら、鍔の先に続いているはずの鋼の色が失せていた。
 いや、色がないのではない。
(刃そのものが消えてしまっている……)
 のである。
 しかも再び「久瀬」の方を振り返ってよく見てみると、その周囲に、硝子片やコンクリート片に混じって、刃物のかけらとおぼしき金属片が散らばっているではないか……。
 どう見ても、神剣と「久瀬」の障壁が、相討ちになってしまったとしか思えない。
「は、ははは……」
 愉快そうに呵々大笑する「久瀬」を前にして、四人は急速に顔から血の気が引くのを感じた。
 わずか七十年前の作とはいえ、きちんと造られた神剣である。
 それが、敵の障壁を打ち破る程度で砕け散ってしまうとは……。
 神剣でこの調子では、「『気』がない」と判断された舞の剣など、「久瀬」にとっては丸めた新聞紙か雑誌のようなものだろう。
 もはや、負けたも同然であった。
「く、くそっ……ど、どうする、舞!」
「……どうするも何も……くっ!」
 あわてて対策を練ろうとする祐一に対し、舞の答えは途中で途切れた。
 自分の優勢を確信した「久瀬」が、こちらへ急に歩き出して来たのである。
 神剣喪失ですっかり戦意をそがれた四人は、三十六計逃げるに如かず、と反射的に廊下を逃げ出した。
 と、階段の手前まで来た時、「久瀬」が素早く四人の前に立ちふさがり、階段の方へ彼らを押し出そうとする。
「くそっ!」
 やむなく、四人は転がるようにしてばたばたと階段を下り始めた。
 そして、二階で再び廊下に出ようとした四人の前で、またしても「久瀬」が階段へ向けて巨体を突き出して来る。
 再び、四人は階段を下りた。
 明らかに、
(遊ばれている……)
 のだが、実質的に丸腰の四人にはどうにもならない。
 ついに、彼らは一階の真ん中の教室の窓際に追いつめられ、窓から中庭へと逃げる羽目になった。
「み、みなさんっ!」
「みんな!」
 恐らくただならぬ騒ぎに気づいて飛び出して来ていたのだろう、待機組の三人が遠く校門の方で叫ぶ。
「だ、駄目だ!来ちゃ駄目だ!死ぬぞ!」
 今にも飛び出して来そうな三人に、祐一が必死の形相で制止の声を上げる。
 その間にも、「久瀬」はずんずんと迫って来る。
 そして、
「さて……そろそろお遊びにも飽きたな。死んでもらおうか」
 そう言ってぬたりと笑うと、鋭い手の爪をしゃりしゃりとすり合わせ始めた。
 恐らく、この爪で自分たちの首でも刎ね飛ばすか、串刺しにでもしてなぶり殺しにしようというのだろう。
「ひぃっ……」
「………!」
「いやあっ……」
「うぐぅっ……」
 四者四様の悲鳴が上がる。
 と、その時、「久瀬」が祐一に肉迫すると、拳で思い切り頬を殴り飛ばした。
「ぐふぅっ……」
 そして、中庭の砂の上に倒れた彼の眼の前に爪を突き出したかと思うと、それをずぶりと右の手のひらに突き刺したものである。
「ぐぎゃあっ!」
 背筋にぎんと響くような猛烈な痛みに悲鳴を上げる祐一を、「久瀬」は愉しげに見下ろすと、
「痛いか……そうだろうなあ。なら、その痛みを抑えてやるぜ」
 そう言うと、今度は左の手のひらに爪を突きこんで来た。
「うぎゃあっ……」
 気絶せんばかりになりながら叫ぶ祐一に構わず、「久瀬」は手のひらに刺したままの爪をぐりぐりと動かす。
 既に、祐一の手許には、血だまりが出来ている。
 と、その時、「久瀬」が、
「ふん……男を先に殺しても面白くないな。殺すんなら、女が先の方がいい。処女(きむすめ)のあの絹を裂くような悲鳴、あれがたまんねえんだよな」
 そう言って下卑た笑いを浮かべると、ずぽりと祐一の手から爪を抜き、三人の方に向き直った。
 そして、身構える三人を愉快そうに見ると、
「まず、誰から殺すかな……そうだな、そこの馬鹿女から行くか」
 そう言って佐祐理を指差す。
 その言葉に、舞が、
「……さ、させない!」
 佐祐理をかばおうと彼女の前に飛び出すが、
「邪魔だ、どけ!」
 丸太のごとき「久瀬」の右腕に払われて横っ飛びに吹っ飛び、ぼろきれのように地面へたたきつけられる。
 それを見て、佐祐理が、
「ま、舞!」
 あわてて駆け寄ろうとするのを、「久瀬」は止めずに黙って爪を一閃させた。
 すると、どこをどうされたのか、佐祐理の服が滅茶苦茶に裂け、白磁のごとき彼女の肌が露わになったものだ。
「きゃあっ!」
 突然の辱めに、佐祐理はその場で身を抱えて座りこんでしまう。
 その彼女の耳に、
「へ、へへへ……」
 「久瀬」の下劣な笑い声が響いて来る。
 その声に、佐祐理は生まれて初めての恐ろしい戦慄を感じた。
 こうなった場合、有り得る展開はひとつしかない。
(犯される……)
 このことだ。
 佐祐理……いや彼女に限らず全ての女性にとって、これほどまでの恐怖はないだろう。
 しかも、それをやろうとしているのは人間ではない。化け物なのだ。
 佐祐理は、今すぐここで手に持った剣で自害したい衝動にかられた。
 だが、躰は言うことをきかず、ただただ硬直するばかりである。
 そうしている間にも、「久瀬」は真っ赤な舌でちろちろと唇をなめながら、こちらに近づいて来る。
 そして、
(これまで……)
 と、佐祐理が自分の人生の終焉を覚悟した時である。
 「久瀬」の背後で、何かが立ち上がる気配がした。
「……佐祐理をいじめたら、許さないんだから!」
 舞である。佐祐理に害をなす連中に投げつける、いつものせりふが飛んで来た。
 その声に、「久瀬」が、
「ふん……まだ抵抗する気があったのか。いいだろう、お前もひんむいて、二人一緒に愉しんでやる」
 余裕しゃくしゃくの様子で振り返る。
「……お前は、佐祐理を傷つけ、祐一まで傷つけた。それだけじゃ飽き足らず、佐祐理の女性としての尊厳まで踏みにじろうとしてる!許さない……お前だけは、絶対に、絶対に許さない!お前の毛一本たりとも、この世に残すものか!」
 愛用の剣を中段に構え、激昂の余り、憤死せんばかりに躰を震わせながら叫ぶ舞に、「久瀬」は、
「ふん。威勢のいいせりふだな。そんな棒っきれで、俺と闘えると……」
 相変わらず小馬鹿にしたような言葉を投げかけようとした。
 が、投げかけようとして、彼は瞠目した。
「な、何だと……?」
 何と、舞が構えている剣から、白い光が立ち起こっている。
 その光は徐々に強くなり、剣どころか舞の躰まで覆い始める。
 そして、その光が舞の手から胴、頭、そして足へと進んで行くうちに、彼女の負った傷が次々と治って行くではないか……。
「い、一体、こりゃ何だ……?」
 予想だにしない展開に、「久瀬」が呆然としていると、さらに横にいた佐祐理と、斜め前にいた祐一の剣も光を帯び始める。
 そして、その光が増すにつれて、佐祐理の破れた服も、祐一の手の傷もきれいに治ってしまったのだ。
 あまりのことに、「久瀬」は何も出来ずにいたが、やがて、
「……しゃ、しゃらくせえ!そんな脅しで俺が倒せると思うな!」
 苦しまぎれにそう叫ぶと、右手の爪を突き出して舞に肉迫した。
 が、舞は、
「……破(は)っ!」
 裂帛の気合声で剣を一閃し、その親指と人差指の爪を受け止める。
「な、何っ!?俺の爪を、止めた!?」
 そして、あわてふためく「久瀬」をよそに、さらに剣に力をこめると、
「……鋭!」
 その爪を指ごとすっぱりと切り落としてしまったものだ。
「ぐ、ぐああっ……!こ、この!」
 「久瀬」は獣じみた悲鳴を上げながら、躰を翻して舞の背(そびら)に襲いかかろうとする。
 しかし、
「させませんっ!」
 佐祐理の剣に今度は左手の親指の爪を受け止められる。
「そ、そんな馬鹿な……この女がなぜこんな技を……」
 うめくようにつぶやく「久瀬」を、佐祐理は、
「よくも、よくも佐祐理を、舞を、祐一さんを、散々辱めてくれましたね……。許しません!」
 詰と睨みつけると、
「曳!」
 またしてもすぱっと、爪を指ごと切り落とす。
 突然指を二本失い、「久瀬」はしばらく血を滴らせながらうめいていたが、
「ぐ、ぐうう……指ばかりか。その程度のもん切り落としたって、いくらでも復活できるぜ……」
 それでもなお余裕のあるところを見せようとする。
 事実、傷はすぐに血が止まり、既に肉が盛り上がっている。
 が、次の瞬間、祐一が、
「なら、手ごと切り落とすまでだ!」
 そう叫ぶと、
「曳!」
 「久瀬」の右側を駆け抜けながら、上段から袈裟懸けに右腕に斬りかかり、ひじから先を切り落としてしまったものである。
「ぐああっ……!」
 今度はかなり効いたようで、「久瀬」はどおんという轟音と共に地に仰向けに倒れこんだ。
 それでもなおも、
「く、くそ……右手を切り落としたくらいで……まだ左手が残ってるぞ!」
 苦しい息の下から絞り出すように声を上げる。
 そして、大地についた左手をついて、立ち上がろうとした時だ。
「な、何っ……う、動かねえ……」
 「久瀬」の狼狽した声が聞こえて来た。
 見れば、「久瀬」の左手の上に、何かがいる。
 そして、
「お姉ちゃん!空いてるならここ手伝って!」
 かたずを飲んでなりゆきを見守っていたあゆに叫んでいる。
 それは小さな少女だった。それも、なぜかうさぎの耳のかぶりものをした少女が、「久瀬」の左手を押さえつけているのだ。
「くそっ……何だ、このがき!」
 「久瀬」はその少女をつかみ潰そうと、必死で手を動かす。
 しかし、彼の指が少女に触れた瞬間、まばゆい電光が彼女の躰から放たれた。
「ぐぎゃああっ!」
 「久瀬」の悲鳴が上がり、左手が緩む。
 腕を電光に焼かれたのだ。
 今や「久瀬」の筋骨たくましい腕は、見るも無惨に消し炭の状態となって、全く使いものにならない。
「くそ……くそっ!」
 それでも「久瀬」は器用にも足だけで立ち上がった。
 が、今度はその足が動かない。
 見ると、右足に件の少女が乗り、左足にあゆが乗っている。
 それを見て、「久瀬」は、
「畜生!どけ、どけっ!」
 無理矢理足を動かそうとするが、微動だにしない。
 左足ぐらいは動いてもよさそうだが、どういうわけかあゆも少女の影響下にあるようで、全く歯が立たないのだ。
 そして、「久瀬」が全く動けなくなったのを確認したかのように、
「今だよ!舞、とどめを!」
 件の少女が叫ぶ。
「……は、はちみつくまさん!」
 それを聞いて、舞が跳び上がる。
 が、その跳躍はただのものではなかった。
 舞が跳び上がった瞬間、彼女の周りに光が煌(きら)めき、地上から巨大な雷電の柱がそびえ立った。
 その雷電に取り囲まれるようにしてゆうに十メートル以上跳び上がった舞は、剣を最上段に構えると、あたかも稲妻が地上に向かって落ちるように、一直線に「久瀬」目がけて落下を始めたのである。
 そして、
「ぐわああっ……眼が、眼がっ……助け、助けてくれええっ……」
 余りの恐怖に錯乱し、狂ったように叫ぶ「久瀬」に、舞は、
「……天(あめ)なるや、弟棚機(おとたなばた)の、項(うな)がせる、玉の御統(みすまる)、御統に、穴玉はや、み谷、二渡(ふたわたら)す、阿治志貴(あじしき)、高日子根(たかひこね)の、神ぞ!」
 そう厳かに、しかし素早く叫ぶと、
「……鋭っ!」
 思い切り「久瀬」の脳天に剣を振り下ろしたものだ。
 頭を割られた「久瀬」は、
「ぐぎゃああっ……ぐおお、おおおっ……ああああっ……」
 けだものじみた断末魔の声とまばゆい光を放ちながら、剣の斬りこむままに躰を唐竹割りにされ、ずううんという音と共に大地に殪(たお)れ伏した。
 やがて舞の着地と同時に「久瀬」の断末魔が消えると、その光が急速にしぼみ始める。
 そして人間くらいの大きさになったところで、急に光るのをやめた。
「し、仕留めたのか……?」
 余りに劇的な出来事に、半ば呆然としながら祐一が舞に訊ねる。
 既に、舞を取り囲んでいた雷電の柱はなくなり、三人の剣の発光も止まっていた。
「……恐らく。脳天を唐竹割りにされて、生きているとは思えない」
 そう言って荒い息を吐く舞に、祐一は、
「ともかく、見に行ってみよう」
 そう促し、光の収まったところへ歩いて行く。
 が、近づいて、ぎょっとなった。
 そこには、学校の制服を着た人間姿の「久瀬進」が、眼を閉じて横たわっていたからだ。
「お、おい、こりゃどういうことだ!」
「……わ、分からない」
「ともかく、こいつを生かしといたら危険だ。もう一度とどめを……」
 そう言って、祐一がためらいがちに右手の剣を振るおうとした時だ。
「駄目だよ、祐一……その人は、本物の『久瀬進』さんだよ。もうあの化け物はさっきので祓われたんだから、そんなことしちゃ駄目」
 突然、天から少女の声が響いて来た。
「え……?」
 その声に、四人が驚いて振り返った時である。
 それまで、月明かりの下で黒々と無惨な姿をさらしていた校舎が急に姿を消したかと思うと、辺りがにわかに黄色の光にぼんやりと包まれた。
 彼の耳に、さあっ、という穏やかなざわめきが響いて来る。
 そしておぼろげだった光が、カメラの焦点を合わせるようにくっきりとしたものになったかと思うと、次の瞬間、辺り一面に黄金色の麦畑が広がっていたものだ。


「こ、これは……?」
 祐一は突然の出来事に呆然となった。
 それは中庭の向こうの方で闘いを見守っていた待機組の三人も同じだったようで、麦をかき分けながら、
「な、何、これ……」
「一体、これは……どういう……」
 などと口々に驚きの声を上げながら近づいて来る。
 そこに再び、
「祐一、どこ見てるの。ここだよ、ここ」
 麦の向こう、ちょうど畑の北側から、少女の声が響いて来た。
 見れば、たわわに実った大麦の穂波の真ん中に、先ほど「久瀬」の手足を押さえつけていた少女が、後ろで手を組んで立っていた。
「さ、さっきの子か……なあ、お前は一体誰なんだ……?」
「……もう、祐一ったら、すぐに忘れちゃうんだね。今朝、会ったばかりじゃない」
 少しうらめしげに言う少女に、祐一はしばし考えこんでいたが、
「あっ……もしかして、今朝の夢に出て来た、光る女の子か!?」
 思いついたように手を打った。
「そうだよ。……あの時、『顔を見れば分かるかも知れない』って言ったよね。どう?」
「えっ……」
 少女の少し責めるような言葉に、祐一は一瞬つまった。
 が、少女の顔を改めて正面から見つめた時、彼の頭の中で何かがひらめいた。
 自分はこの少女を、
(ずっと以前から知っている……)
 そう感じたのだ。
 祐一は、自分の予感を確認しようと、麦畑の西、西校舎があるはずの方向を向くと、そこの麦の穂をかき分けて向こうを見ようとする。
 そこには、現在の校舎とは似ても似つかない、モルタルの古びた二階建ての校舎があった。
 そしてその屋上に、「福南学園高校」と一文字ずつ分けて書かれたほうろう引きの看板が設置されているのを見た時、
「ああっ……!」
 彼の脳裡に、今度ははっきりとある記憶がよみがえって来たのである。
「そ、そうか……お前は十年前の夏、麦畑で遊んだあの子か!」
 このことだ。
 それを受けて、少女が意を得たり、というようにこくんとうなずく。
 そのやりとりを見て、
「ど、どういうことなんですか、祐一さん」
 そう異口同音に訊ねて来る一同に、祐一は記憶の糸をたどりながらことの経緯(いきさつ)を語り始めた。
 十年前の夏、例によってこの南森の水瀬家へ泊まりに来ていた祐一は、ある日遊びに出かけた時に偶然この福南学園高校旧校舎の裏の麦畑へ迷いこみ、この少女と出会った。
 そして、出会ったばかりなのにすぐに打ち解け合い、それからよく遊ぶようになったのである。
 自分とほぼ同年齢なのに、こんな人気のない場所で遊んでいるのを妙に思って、他に友達はいないのかと訊ねてみると、彼女は、
「うん……あたしは普通じゃないから」
 幼い顔をくもらせてそう答えた。
 あとで聞いたところによると、彼女は超能力のような特殊な力を持っていて、ある時無理矢理テレビの超能力番組に出演させられのだという。
 そしてそれによってその力が世間の知るところとなり、前の町にいられなくなった親子は、母の実家のあるこの南森に戻って暮らしていたのだが、ここでも一部彼女の力のことを覚えている人間がいて、そのために彼女たち親子は執拗な迫害を受けることとなった。そのために、結局彼女は学校にも子供たちにもなじめず、仕方なくこうして一人で遊んでいたというのだ。
 だが、生来ものごとにこだわらない気質(たち)の祐一にとって、そんなことは何の障碍(しょうがい)にもならなかった。彼女の力を見せてもらっても、
「へえ……不思議だね」
 としか言わなかったくらいである。
 少女の方でも、そんな祐一の分け隔てない態度に好感を抱き、二人はまるで幼なじみのように親しくなって行った。
 一面に広がる麦畑の中で、かくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたり……そんな他愛もないことで、一日を過ごした。
 今少女がかぶっているうさぎの耳のかぶりものも、背の低い彼女が麦の波の中でとかく有利になりがちなのを防ぐべく、自分との背の差を埋める意味で、南森大師の縁日で手に入れたのをあげたものだという。
 しかし、そんな日々も長く続かなかった。二週間ほどで父親の休みが明けることになった祐一は、東京へ戻らなければならなくなったのだ。
 最後に遊んだ日、いつも明るく笑っていた彼女が、いつになく固い顔で別れを告げた姿が、今でも眼に浮かぶ。
 その冬、再び来南した祐一は、彼女を探そうと試みたが結局見つからず、そのまま忘れるとはなしに忘れてしまったのである。
 と、そこまで話して、祐一は何かを考えこむような顔つきになり、
「あれ……そういやお前、俺が帰る日、どこをどう調べたんだか、水瀬の家に電話かけて来たよな」
 そう言って、電話の内容を思い出そうとこめかみに手を当て、必死に考えこみ始めた。
 そして、数十秒ほど考えこみ、
「えっと、確か……何かえらいもんがいつもの遊び場にやって来るから守りに来てくれ、来てくれるまで一人で闘ってるから、って言ってたか……ううん、確か、『魔物』とか……」
 ようやく答えを出す。
 だが、答えを出して、祐一は自分の探り出した単語に凝然となった。
「……ま、『魔物』だって!?」
 そう言った瞬間、彼の脳裡にひとつの記憶がよみがえった。
 高校裏の麦畑……ついさっきまで忘れていたが、それは確か当時校舎の東側にあったはずだ。
 そしてその後その校舎は五年前、共学化に際し取り壊され、校地を東に広げ、さらに校庭も東に広げた上で、そこに新しく校舎を造ったと聞いている。
 そう、十年前のあの麦畑こそ、今しがた「久瀬」と血みどろの闘いを繰り広げていた校舎の場所にあったものなのだ。
 さらに、あの日少女が麦畑で「魔物」と闘い続けると宣言し、それから十年後の今、その麦畑の跡に造られた校舎で、舞が「魔物」を討ち続けていたのである。
 このことから、導き出される結論は一つだった。
「ま、まさかお前……舞なのか?今そこにいる、川澄舞なのか?」
 このことである。
 その言葉に、少女は、
「うん、そうだよ……あたしは川澄舞。そこにいる舞と、同一人物だよ」
 重々しくうなずいてみせた。
「そ、そんな……なあ舞、この子の言うこと、本当なのか?」
 少女の意外な発言に、祐一が思わず舞に水を向けると、彼女も驚きを隠せない様子で、
「……そう言うのなら、恐らくそうなると思う。さっき祐一がこの子について話したこと、全て私の過去と一致するから……。なぜこんな風に別人として出て来ているのかは分からないけど……」
 心なしか震えた声で答える。
 そして舞は、その証拠として自分の過去を語り始めた。
 それによると、彼女の家は、元は南森の西の郊外・沢潟(おもだか)にあったという。
 だが、舞自身はそこで生まれたわけではない。彼女の母・啓子が嫁いだ、とある山間部の村で生まれたのである。
 その村の名前だけは、
「……思い出したくないから、勘弁して欲しい」
 とのことだ。
 というのも、啓子はただ嫁いだのではないからである。
 その村には川澄家の親戚が住んでいたのだが、実はこの親戚が大変因業な大尽で、彼女の家がそこに作った借金を返せなくなったことを理由に、啓子を息子の嫁によこせと行って来たのだ。
 当然啓子は嫌がったが、両親が苦悩する姿に耐えきれず、そのままそこへ嫁いだ。その結果生まれたのが舞である。
 そこでの生活は、ひどいものだった。
 そこの家は、まるで戦前のような、弊習に満ち満ちた時代錯誤もはなはだしい家で、啓子は生まれつき病身にもかかわらず姑からいいようにこき使われ、いびり倒されていたという。
 舞もまた、跡継ぎにならない女の子ということで、あまりよい扱いは受けていなかったようだ。
 そして四年後、姑と夫が男が生まれないことを理由に一方的に離縁を申し渡し、啓子と舞は仕方なく家を出て、近くの大きな街で暮らし始めた。
 その暮らしは穏やかなものだったが、舞が五歳の時、その平和が急に壊れた。
 動物好きの舞のために、と病身をおして動物園に彼女を連れて行った啓子が、園内で急に意識を失って病院に担ぎこまれ、医師の必死の蘇生にもかかわらず、その日の内に死んでしまったのだ。
 死因は心室細動による心不全。発生すると即心停止という、悪質極まりない不整脈であった。
 しかし、まだ五歳の子供に、母の死を受け容れることは到底無理である。
 彼女は、どうしてもこらえきれずに、
「お母さんに、また元気になってもらいたい」
 そう強く祈った。
 だが、このことが思わぬ事態を生んだ。死んだはずの啓子が、突如蘇生したのである。
 舞は無邪気に喜んだが、当然医師や親戚たちは医学的に有り得ない出来事に、上へ下への大騒ぎとなった。
 あとで知ったことだが、この事件はすぐに箝口令(かんこうれい)が布かれ、現在でもその病院では「なかったこと」になっているらしい。
 これが、舞の「力」の始まりであった。
 その後も舞は、母と二人暮らしを続けつつ、その「力」を「神様がくれたもの」と信じて使い続けた。
 しかし、どこからどう知ったのか、そこに眼をつけた者がいた。
 それが、啓子を離縁したはずの夫の姉である。ギャンブルに打ちこみすぎ、借金まみれになっていた彼女は、折からのブームで「超能力」が金になると知って、舞をテレビ番組に出そうと企んだのだ。
 そして舞は、そのままそこの地方のテレビ局が制作した番組に出演させられ、「力」を実演することになった。
 今のものもそうであるが、昔のこの手の番組はひどいものが多く、事実その番組も「超能力」を好奇的に扱うものであったという。
 舞によると、
「……私が嫌だと言うのに、無理矢理スタッフの連中がやるまで帰さないと脅しつけた」
 とのことだから、その番組の程度が知れようものだ。
 このことが、彼女の人生を決定的に変えてしまった。その番組のたちの悪い演出に騙された無知蒙昧な人々が、二人を「悪魔の親子」呼ばわりし、村八分を始めたのである。
 その結果、二人は街を出ざるを得なくなり、また引っ越してもすぐに噂になるため腰が落ち着けられず、各地を転々とする羽目になってしまった。
 そんな生活を二年ばかり続けたある日、二人の耳に、この放浪の元凶となった件の親戚が、借金により一家離散したという話が入った。
 また、それと同時に、仕事の関係で米国にいた啓子の遠縁の従兄弟が、二人のことを耳にし、援助を申し出たのである。
 忌まわしい親戚の連中の影におびえる心配もなくなり、金銭的にもある程度の安定を得られるようになった二人は、ようやく生まれ故郷である南森の、今舞が住んでいる橋場町のアパートの一室に根を下ろすことになった。
 が、それでも嫌がらせがないわけではなく、特に舞は一度誤って学校で「力」を出してしまい、恰好のいじめ対象となってしまった。
 その時期のことについては、舞自身もよく憶えていないが、小学校に上がってすぐの頃、高校裏の麦畑で優しい少年と会って、少しの間一緒に遊び回ったこと、そしてその子と別れた次の日に「『魔物』が麦畑に出る」と電話をかけて助けを求めたのに結局相手にされなかったことだけは、おぼろげに覚えている。
 そこのところは、相手の名前を憶えていないのを除けば、確かに祐一の話と全く一緒である。
「……今から思えば、あの子は母以外で、私をごく普通の女の子として扱ってくれた、最初の人だった。私の『力』を見ても、全然気にしなかったし、それどころかそんなことなんてどうでもいい、という感じがとても新鮮だった。それまで私の周りにいた人は、みんな私を腫れものか何かのように扱う人ばかりだったから。嬉しくて、嬉しくて、離れたくなくなって……もうその子が来られないという話になった時も、こらえきれず『魔物が出た』という狂言までやって引き止めようとした。でもその子も結局去って行ってしまって、私は正直失望した。やっぱりあの子も同じだ、私のことが嫌になったんだ、って……」
 だが、そんな舞の思いを尻目に、「狂言」のつもりでやったこの「魔物」の話が、予想もつかない事態を招いてしまった。
 その日、祐一を待とうと麦畑に出かけた彼女の前に、本当に「魔物」が現れたのである。
 そこから、舞の「魔物」との長い闘いが始まった。
 最初は極たまにしか出ず、棒っきれで殴りつければ退散していた「魔物」が、一年としないうちに急速に強くなり、出現頻度も高くなって行ったのである。
 それによって棒っきれや竹刀では対応しきれなくなった舞は、ある日偶然押し入れの奥から発見した件の三振の刃引きの剣を使用するようになったのだ。
 そして、六年前に麦畑が潰され、高校の中庭と東校舎の敷地となることが決まった後も、「魔物」はその周囲や時には工事現場のど真ん中で出現を続け、さらに三年前に彼女がここの高校に入学すると、今度はその麦畑跡の新校舎に「魔物」が出現するようになり、夜な夜な剣を手にそれを討ち続けなければならなくなってしまったのである。
 その頃には、もはや明るかった以前の舞の姿はどこにもなく、今のように無愛想で無口な舞が出来上がっていた。
「……正直、自分でも時々、何でこんなことをしているのかと思わないじゃなかった。意地になってるだけじゃないのか、と。特に、八年前に母が東京で客死(かくし)してからは、そんな思いがずっと胸の奥にあった。でも、これが私の義務だと思っていたし、そうしていれば、またあの子、つまり祐一に会えると思っていたから……」
 淡々とそう語る舞に、祐一は、
「舞……」
 ただただ絶句するしかなかった。
 まさか、自分があそこで舞の頼みを軽くあしらったがために、せっかく心の平安を得ていた彼女が不信に陥ってしまったばかりでなく、十年もの間「魔物」とのつらい闘いを続ける羽目になっていたとは……。
 彼は、心の底から自責の念がこみ上げて来るのを抑えることが出来ず、思わず舞の肩に手をやると、
「舞……ごめんな。いや、ごめんじゃ済まないかも知れないな。まさか、俺が軽率だったために、お前がこんな目に遭うことになるなんて……。あの時、あんな風にけんもほろろにせずに、何が何でもお前のところに行くべきだった。それをあんな冷たくして、しかも忘れちまうなんて……。それを思うと、俺は、俺は……」
 頭(こうべ)を垂れてぽろぽろと涙をこぼした。
 しかし舞は、そんな祐一の肩へ逆に手をやると、
「……仕方ない。祐一は『力』以外のことは何も知らなかったし、家の事情もあった。それ以前に、あんな状況で『魔物が出た』と言われたら、自分を引き止めるための狂言だと思ってもおかしくない。……それに、祐一に見捨てられたと思ったのは、今の祐一を見ればとんだ勘違いもいいところ。十年間『魔物』を討ち続けたのも、私が勝手にしたことだし、それに忘れたのは私も一緒だから。むしろ、私の方があやまるべき。だから、気にしないで、祐一」
「でも、それでいいのか、お前は……」
「……さっきも言った。過去を責めるのは不毛」
 そう言って、自分に対して恨みごと一つ言わぬ舞に、祐一は、
「舞……」
 ひとつつぶやくと、突然膝を土につけ、黙って土下座をした。
 過去を責めても何にもならない……そのことは浦藻の言葉で分かっていても、やはり気が済まなかったのである。
 舞が自分のことを寛大に許してくれただけに、その思いは大きかった。
 そんな祐一に、舞は、
「……やめて、祐一。顔を上げて」
 そう言って、ためらう彼を立ち上がらせると、
「……そんなことより、私たちにはまだやらなきゃならないことがある」
 剣を持ち直してきびすを返した。
「……やらなきゃならないことだって?」
「……そう。まだ、『魔物』が残ってる」
「何言ってるんだ、さっき、全てが終わったじゃないか」
「……終わってない。さっきのやつはあくまで殺生石の手先。『魔物』を討ち終えたわけじゃない」
 そう言ってすたすたと歩き去ろうとする舞を、小さな「舞」――以下、混同を防ぐため「まい」と表記する――が呼び止めた。
「待って、舞!『魔物』は、もう討つ必要なんてないんだよ!」
 その声に、舞がぴたりと足を止める。
「……どういうこと?」
 振り返った舞に、「まい」は、麦の穂をかき分けて駆け寄ると、必死で話しかける。
「さっき……さっき舞は、『魔物が出た』と狂言をしたら、ほんとに出てしまったって言ったよね?それが……それこそが『魔物』の正体の鍵なんだよ」
「………?」
「舞の『力』は、お母さんを生き返らせたのでも分かるように、強い思いや願いを実現させる能力を持っている……つまり『魔物』は、舞自身が創り出したものだったってことだよ」
「……わ、私が創り出した……?」
 余りに衝撃的な「まい」の発言に、舞は愕然とその場に立ちつくした。
「……そう。言いかえれば、あの『魔物』は舞の『力』が形になったもの。極端に言えば、舞の躰の一部なんだよ」
「……私の躰の?そ、そんな馬鹿な……」
「信じられないかも知れないけど、本当なんだよ。……最近、舞はけががひどくて困っていたよね?あの殺生石の手先のやつにやられたのも随分あったと思うけど、その中に、明らかに他と違う痛みがなかった?」
 そう問う「まい」に、舞はしばらく困ったように黙っていたが、
「……そういえば、確かにあった。『魔物』を討っている最中、やられたわけでもないのに二の腕や足が、まるで骨から腐っているかのように烈しく痛むことが……」
 うつむきがちに、思いついたように答えた。
「それが、『魔物』が舞の躰の一部だって証拠なんだよ。自分で自分の躰の一部を斬っていたんだから、痛むのは当然だよね?」
「………」
「舞……あなたは昔のつらい体験から、お母さんや自分が不幸になるのは、全て自分の『力』のせいだと思っていた。だから『力』を拒絶して、排除したいと考えた。その思いに、『祐一と離れたくない』という思いが加わったことでいっそう拍車がかかって、ついに『力』を『魔物』として具現化させてしまったんだよ。それを討つことが、『力』を排除し、ひいては不幸の原因を消し去ることになる、という論理で」
「………」
「……でも実際には、『魔物』を討てば討つほど、『力』を拒絶することは出来ても、その他のところで舞は孤立して行った。大体『魔物』を討つこと自体、誰にも――それこそ、佐祐理さんにも――話せないような孤独な作業だったはず。その矛盾が、いつか舞の心をがんじがらめにして、舞を『魔物』を討ち続けなければならないという無限廻廊へと導いて行ったんだよ……」
 しかし舞は、悲痛な声でそう一気に言う「まい」に対し、
「……信じられない。私が『魔物』を討っていたのには、さっき言った通りの理由しかない」
「舞!」
「第一、そんな風に言うあなたは何者なの?私の昔の姿をして出て来てるけど、人間じゃないはず」
 逆に睨みつけながら厳しい声で問いつめようとする。
「あたし……あたしは、言うなればやっぱり舞の力が形になったもの。ただ、舞の『力』が外で具現化しただけの『魔物』と違って、その剣に憑いていた『気』が、舞の『力』によって励起されることで生み出された存在なの」
「……じゃあ、あなたはこの剣の『気』と私の『力』の合わさった存在だって言うの?……なおさら信じられない。この剣は、浦藻さんが、『気』が感じられないって言ってた剣だもの」
「『気』が感じられない……それは当たり前だよ。だって当の『気』は、普段は『魔物』と一緒に舞の中に取りこまれてしまっていたんだから。そして夜の学校で、舞の躰から出た『魔物』が暴れ回り、それを同じく舞の躰から出た『気』、つまりあたしが剣に憑いて、『魔物』を斬れるようにしていたんだよ」
「……そんな……」
「これでも信じてもらえないなら、その剣の正体を明かすよ。それは、物見神社が殺生石にやられた時に、砕け散った十量剣(とはかりのつるぎ)の破片を、舞のご先祖様が集めて、鋳直したものなの」
「……じゃ、あなたは、物見神社の神様の力の顕れなの?……それこそ、信じられるわけがない」
 「まい」の必死の説得にも、舞はかたくなな態度を崩さず不信の意を露わにする。
 と、その時、後ろの方でそのやりとりを見ていた美汐が、
「……あの、川澄先輩。そのことなんですが、思い当たる節があります」
 恐る恐る二人の間に割って入った。
「……思い当たる節?」
「ええ。さっき『久瀬』と闘っていた時、そちらの小さい『舞』さんが電光を発して、やつの手を焼きましたよね?」
「……確かに、そうだけど」
「さっき小さい『舞』さんが言っていた物見神社の祭神、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)は、農耕神という扱いになっていますが、本来は雷神なんです。彼女があそこで電光、すなわち雷を発したのは、そのためだと解釈すれば納得が行きます。それに、剣についても、突然あのような雷の柱を創り出したことや、飛び降りる時に先輩の叫んだ言葉が、『古事記』で阿治志貴高日子根神、すなわち味耜高彦根命の名を顕し、雷神としての勢いを顕彰する歌謡であることを考えれば、恐らく本当なのではないかと……」
「……そんな」
「それとも、先輩の『力』は雷を操ることも出来るんですか?あと、あの歌謡や周辺の物語はご存知だったんですか?それならば、嘘ということになりますが……」
「……いや、私の『力』は、そこまでものすごいものじゃないし、『古事記』は大昔に読んだきりで、もう詳しい中身は忘れてる。あの歌は、あの時自然に口をついて出て来た」
「ならば、小さい『舞』さんの言うことは、信じても構わないと思いますよ。少なくとも、その剣が十量剣のなれの果てであることや、小さい『舞』さんがその顕れであるという点については……」
 理路整然と説明する美汐に、
「……そう。天野さんがそう言うのなら、そうかも知れない……」
 舞は一応納得したように答えた。
 しかし、その声はどこか煮え切らない響きを持っている。
 結局納得してくれなかったのかとも思ったが、よく見ると、舞はなぜかうつむき、小刻みに躰を震わせている。
「舞……?」
 その様子を怪訝に思った祐一が、彼女の顔をのぞきこむ。
 が、のぞきこんで、はっとなった。
 そこにあった舞の眼の色は、もはや先ほどのような、不信感に満ちたかたくななものではない。
 それどころか、それとは全く逆の、懊悩(おうのう)に満ちた色を帯びていたのである。
 そして、その姿に、祐一が、
「ま、舞……?」
 戸惑いながら言いかけた時だ。
 舞が、
「……分かっていた」
 ぽつりと、のどの奥から絞り出すような声でそう言いだしたのである。
「……天野さんの説明がなくても、私はその子の言うことがほんとだってこと、分かっていた。確かに最初は驚いたけど……『魔物』を斬るとこの身が痛むというのを指摘されて、信じる気になっていた。それ以前に、その子を見た時から、『魔物』とは一緒のようで全然違う……いや、むしろ、私にとってとても身近な存在だと、おぼろげながら感じていたから……余計に信じる気になった」
 うつむいたまま、小さな、しかししっかりとした声でそういう舞に、「まい」が、
「……じゃ、じゃあ、何で『信じられない』なんて……」
 狼狽しながら問うと、彼女は、
「……怖かったから。信じるのが……」
 うめくように答える。
「怖かったって……どういうこと?」
「……もしあなたの言うことを信じるとしたら、私は『魔物』を討つのをやめなければいけない。……そうなったら、私はどうしたらいいの」
「えっ……」
「……私はずっと、『魔物』を討つことだけにこの身を、命を捧げて来た。それが義務だと思ったから……。そして、この剣にすがって、頼って、それで生きて来た」
「………」
「……でも、あなたの話を信じたら……私はそれを全てやめて、剣を捨てなければいけない。それは、私にとっては、今までの生き方をやめること。そうなったら……どうやって生きて行ったらいいのかも、何を頼りにしたらいいのかも分からない。こんな『力』を抱えていれば、なおさら……。それには、耐えられない……私は、剣を捨ててしまった私は、本当に弱いから……本当に……」
 そう悲痛に語る舞の声は既に潤み、うつむけた眼からはぼろぼろと涙が落ちている。
「……だから、無駄と分かっていても、その子の言うことを信じない振りをしてしまった。そうやって押し切れば、私が今までの私でいられるような気がして……。でも、やっぱり無駄なものは無駄だった。当たり前のことなのに……。私は……本当に、本当に弱い……こんな私がすがるものなんて、この剣以外に……以外に……」
 そう言いながら、舞は剣にすがりつくようにして地面に座りこみ、泣き崩れてしまった。
「舞……」
 その姿に、祐一は何も言うことが出来ず立ちつくしていたが、その横で誰かが動いた。
「……舞、それは違うよ」
 佐祐理だった。
 佐祐理が、泣きじゃくる舞のそばに駆け寄り、彼女の肩に手を乗せて優しく語りかけているのだ。
「………?」
「……舞は、大切なことを忘れてるよ。頼れるものがないなんて、そんなことない。舞には、佐祐理もいるし、祐一さんもいる。そして、みなさんも……」
「………」
「みんな、みんな舞の味方だよ。弱い舞を、きっと助けてくれる……。佐祐理も、舞を助けて行きたいの。どこまで出来るか分からないけど……」
「……でも、迷惑が……」
「迷惑だなんて、そんなこと思ったこともないし、思わないよ。……ねえ、舞、佐祐理たちが初めて会った時のこと、憶えてる?」
「……初めて、会った時の?」
「うん。……あれは、初登校の日のことだったね。舞は、裏山から下りて来た山犬さんが、おなかを空かせているのに気づいて、自分の手を噛ませて何とかしようとしてた」
「………」
「周りの人は馬鹿にしてたけど、佐祐理には分かったの。舞は、ものすごく不器用だけど、本当に優しい子なんだって……。だからこそ、周りの眼なんか構わず、お弁当を差し出してその場を収めたし、舞とお友達になろうと思ったの。そして、誓ったの……この子を幸せにして、佐祐理も幸せになろうって。僭越(せんえつ)だとは思ったけど、人は人を幸せにしてこそ、自分が幸せになれると思ったから。そしてそれが、人として正しい道だと思ったから……」
「………」
「その結果がどうかは、佐祐理にも正直言って分からない。でも、佐祐理は、舞といるととっても幸せなんだよ。それはきっと、舞のおかげ……。だから佐祐理は、舞を助けたい。助けて、助けて、何が何でも幸せにしてあげたい。今まで、つらかった分だけ余計に……。だから舞も、佐祐理をいくらでも頼っていいんだよ」
「佐祐理……」
 優しく、幼な子をなだめるように語る佐祐理を、舞はしゃくりあげながら見上げる。
「……本当に、本当にいいの?みんなも……?」
「もちろん。そうですよね、祐一さん」
「ああ……もちろんさ。というよりも、むしろ俺が率先して助けなきゃいけねえはずなんだ。だって、この一連の事件の種を蒔いたのは、他ならぬ俺なんだから……。いくら舞が過去のことを気にしないと言ったって、きちんと責任取るとこは取らなけりゃ、人として不出来だ」
「……いいの?恋人が、いるのに……」
「いいんだよ、真琴のことなら。あいつはもう前みたいにがきじゃない。話せば分かってくれるよ」
 祐一はそう言うと、佐祐理の横から舞の肩に手をやり、しゃがみこんだ。
 そして、それを見て、
「私も、何かお手伝い出来ることがあるなら……近所ですし、倉田先輩のお隣なんですから」
「川澄先輩……わたしも、何か出来るならさせてください」
「そうですよ、舞ちゃん。もし何か困るようなことがあったら、遠慮なく言ってください」
「うぐぅ……舞さん、ボクまだこの姿だから、自分が助かる方が先になると思うけど……出来ることがあれば、したいな、って」
 他の四人も口々に言い出す。
「……天野さん、水瀬さん、秋子さん、月宮さん……」
「ねえ舞、みんなもこう言ってるんだから、頼れるものがないなんて寂しいこと言わないで、がんばって行こうよ。……きっと時間はかかると思うけど、舞なら、みんなと力を合わせれば、きっと新しい生き方を見つけられるよ。だからもう、『力』を、いや自分自身を拒絶するのなんてやめようよ。ね?」
「うん……分かった……みんな、ありがとう……」
 佐祐理の真摯な言葉に、舞は穏やかなほほえみを浮かべて、一同を見上げる。
 と、その時、そのやり取りを見ていた「まい」が、
「じゃあ舞、もう、『力』を拒否しないね?ありのままの自分を受け容れて、生きて行くって約束出来る?」
 舞に訊ねた。
 その言葉に、舞が、
「……うん。約束する。天地神明に誓って……」
 しっかりとうなずくのを見ると、「まい」は、納得したようにうなずき返し、
「分かったよ。それを聞いて安心した。……これで、あたしも元の場所に戻れるよ」
 胸に手を当て、少し寂しげに言う。
「……えっ……元の場所って」
「さっきも言ったでしょ、あたしの実体はその剣の『気』なんだって。神剣に『気』がなかったら、神剣にならないもん」
「……そんな……じゃあ、もう会えないの?」
「……この姿ではね。でも、心配しないで。剣の中に戻っても、あたしは舞を、いや、みんなを守り続けるから。ずっとそばにいて、助けてあげるから。だから舞も、『力』を使うようなことがあったら、私を頼って」
「……そう……分かった。今まで、本当にありがとう……」
「ほら、もう泣かないで。……さよならの、握手だよ」
 そう言って手を差し出す「まい」の手に、舞は自分の手を重ね、静かに握った。
 温かな、優しいものが、彼女の手のひらから伝わって来る。
 これまでにない、穏やかな気持ちが、彼女にも、また周囲の人々にも広がって行く。
 二人は、名残惜しそうにしばらく手を握っていたが、ややあって、
「じゃあ、舞……さよならだよ」
 そう言い、手を離した。
「……うん。さよなら、もう一人の私……」
 それを見て、舞がこくりとうなずく。
「舞、元気でね。みんなも……」
 その言葉に一様に一同がうなずくのをみた「まい」は、満足そうな笑みを浮かべると、
「みんな、剣を置いて少し離れて。あたしは雷を通してしか剣の中に入れないから、あまり近寄ると危ないよ」
 そう指示を出す。
 その通りに一同が彼女の前に剣を置くと、
「あ、そうだ……言い忘れるところだったけど、久瀬さんのことは気にしないでいいよ。あたしが剣に戻る時、一緒に天に昇るから」
 斜め後ろの麦の穂の中で、死の静謐(せいひつ)に導かれて眠り続けている久瀬の躰を指差して言うと、
「……じゃ、さよなら!」
 そう叫び、胸を抱きかかえるようにして腕を前に出す。
 その腕の中に、やがて白い光が現れ、段々と大きくなって行く。
 それが、「まい」の躰を包みこむほどになり、彼女の姿をすっかり覆い隠した時、不意にひゅんっと空気を切るような音が響き、地に置かれた剣に向けて三筋の光が放たれたかと思うと、まばゆい光が周囲に煌(きら)めいた。
 そして、その光が収まった時、「まい」の姿は消え失せていたのである。
 と、同時に、今まで周囲に広がっていた麦畑が、輝きながら消え始めた。
 その光に抱かれるようにして、久瀬の躰もまた、光の粒となって消えて行く。
 その顔が、苦しみの中で自ら命を絶った者とは思えないほど、穏やかなものに見えたのは、気のせいだったろうか……。
 そしてその光も消えてしまうと、感慨深げな一同の前に、再びいつもの校舎の姿が現れた。
 神霊の力のおかげか、満身創痍だった校舎はすっかり直り、傷一つ残っていない。
 時計台の時計は既に五時半を過ぎ、辺りは日が昇り始めている。
 少しずつ、薄紙をはぐように薄れていく闇の中、祐一は、
「……終わったな、舞。これでお前の闘いも……」
 感慨深げに語りかける。
「……うん。やっと、終わった……」
 そう言って、虚脱したかのように、しかし満足したような穏やかな笑みを浮かべる舞の肩を、静かに佐祐理が抱く。
 舞もまた、彼女の肩を抱き返す。
 その視線の先では、今しも朝日がゆっくりと東校舎の上へ昇って行こうとしている。
 二人は、その朝日のまばゆい光が、自分たちの新しい首途(かどで)を象徴するものであるかのように感じながら、肩を抱き合ったまま、感慨深げにいつまでも眺め続けていた。





 それから二日後の三月二十八日。
 爽やかに晴れ渡った春空の許、学校の講堂で第四十一回卒業式が厳かにとり行われた。
 祐一と名雪は、在校生として参席することになり、講堂の後ろの方に座って凝と式を見守っていた。
 式は進学校らしく滞りなく、何ごともなく進んだのであるが、ひとつだけ祐一が驚いたことがあった。
 それは、開式の辞、卒業証書授与、校長あいさつ、来賓紹介と、紋切り型の式次第が進み、在校生送辞のところに来た時のことだった。

 来賓の紹介が一通り終わり、全員が着席したのを見計らった教頭が、
「在校生送辞。在校生代表、二年E組、斉藤新吾君」
 かしこまった声で送辞を読む生徒の名を呼ぶ。
 その名に、祐一は、
(えっ……?)
 驚きを隠せなかった。
 彼らには、「斉藤新吾」という名に聞き覚えがあった。
 いや、聞き覚えがあるなどとというものではない。自分たちのクラスの生徒で、彼も何度か口をきいたことがある男なのである。
 最初は何かの間違いかと思ったが、直後、
「はい」
 その呼び出しに答えて壇上に上った生徒は、確かにあの斉藤であった。
 この学校の送辞は、毎年生徒会長が読むのが通例となっているはずだ。
 それなのに、平の生徒であるはずの斉藤が、それを読むというのは一体どういうことなのだろうか……。
 突然降ってわいた疑問に、祐一は思わず、出席番号の都合で隣に座っていたクラスメートの北川潤の腕をつつき、
(……おい、北川。送辞って、斉藤のやつだったっけ?)
 小声で訊ねた。
 すると北川は、その問いに不思議そうな顔をして、
(そうだぜ。お前、知らなかったのか?)
 これも小声で答える。
(で、でも、送辞って、生徒会長が読むんじゃなかったか?)
 祐一がその答えに、さらにあわてたような声で問うと、北川は眉間にしわを寄せて、
(何言ってんだよ。お前、知らなかったのか。あいつが生徒会長じゃないか)
 意外なことを言い出したものだ。
(えっ……そんな馬鹿な。確か生徒会長って、C組の久瀬ってやつじゃ……)
(久瀬?誰だそりゃ……)
(誰だって……ほら、いるじゃないかよ、あの生徒会を私物化したやつ)
(……何言ってんだよ、お前。私物化だの何だのって、そんな話聞いたこともないぞ)
(そ、そんな……でも確かに……)
 訝しげな顔で祐一の言葉を否定する北川に、祐一はなおも食い下がろうとしたが、
(……おい、石橋がこっち見てるぞ。注意されないうちにやめろよ)
 北川に注意され、それ以上訊くことが出来なかった。
 そして、式が終わった後もその話は沙汰やみになってしまい、結局彼から真偽のほどを訊くことは出来なかったのである。
 そのことは名雪も同じであったらしく、
「斉藤君が生徒会長なんて……。何か、変だよね」
 しきりに首をかしげていた。
 ともかく、教室でのホームルームを終えた祐一は、先ほどの疑問を胸に抱えながらも、名雪と一緒に正門へと向かった。
 正門までの道は、桜が街道沿いに植えられ、今や満開となっている。
 本来ならこの地方の場合、まだつぼみなのだが、ここの敷地内の桜はどういうわけか、三月末に既に咲いてしまう。
 こんな桜は、この辺りでもここだけだそうで、江戸時代から「遠部(おべ)の早桜」として「南森七不思議」の一つに数えられているとか……。
 話を、元に戻そう。
 まぶしいほどに咲き乱れる桜の下を通り抜けて正門に向かうと、そこでは、こちらもホームルームを終えた卒業生たちが、卒業証書の筒を手に、在校生や父兄と嬉しげに話し合ったり写真を撮ったりと、めいめい勝手に時間を過ごしている。
 二人は、その群衆の中から、特徴的な薄茶の髪と黒い髪の少女を見つけると、
「おーい、舞、佐祐理さん!」
「川澄先輩、倉田先輩!」
 手を振りながら駆け寄った。
「おはよう、お二人さん」
「おはようございます」
 少し息を切らしながらあいさつする祐一と名雪に、二人は、
「……おはよう」
「あははー、おはようございますー」
 相変わらずの調子で答えてみせる。
「しかし、矢絣(やがすり)の着物か。今時、珍しいな」
「ええ。お父様が、せっかくだからと借りてくださったんです。舞の分とおそろいで……」
「……そう、おそろい」
「へえ……粋な親父さんだな。何か、いかにも女学生って感じで、二人の雰囲気にぴったりだよ」
 そう言う祐一の言葉に、
「あははー、ありがとうございます」
「……ありがとう」
 笑いながら礼を言う佐祐理と、無表情ながらちょっと顔を赤くして礼を言う舞に、祐一が笑ってみせると、ちょうどそこに秋子と美汐が現れた。
「おはようございます、舞ちゃん、佐祐理ちゃん」
「おはようございます、お二人とも」
「あっ……おはようございます。わざわざ、ありがとうございます」
「……おはよう、ございます」
 そして、そんなやり取りをしながら、口々に二人の晴れ姿をほめたりしていた時だ。
「はあ、はあ……おーい、佐祐理!」
 中庭の方から、中年の男性の声が響き、ぱたぱたと足音が近づいて来た。
 息を弾ませながら自分の許へやって来た男性に、佐祐理が、
「あっ、お父様……どうしたんですか、随分遅かったですね」
 少し心配そうに言ってみせる。
「いや、すまん。そこで、PTAの会長さんにつかまっちゃってな。あの人、長話で……」
 そう言ってきまり悪そうに盆の窪をかいてみせる男性に、佐祐理は少し困ったような笑みを浮かべると、
「あ、紹介しますね。うちの父です」
 一同に父親を紹介した。
「どうも初めまして、佐祐理の父の倉田繁弘です。いつも、佐祐理がお世話になっております」
 そう言って折り目正しく頭を下げた繁弘は、大変気さくな人物のようで、
「特に、水瀬さんのお母様には、一昨日うちの娘を泊めていただきまして、ありがとうございました」
 そんなことを言いながら深々と秋子に頭を下げるさまは、昔議員の権威をかさに着て威張ったり、自分の子供を必要以上に締めつけたりした人物とはとても思えなかった。
「いえいえ。……そう言えば、昨日聞いたんですが、市議会議員をお辞めになるとか」
 秋子は繁弘の丁重なあいさつに自分も頭を下げると、少し遠慮がちにそう言った。
「ああ、もう話が伝わっていましたか。……ええ、そうです。今月末の任期切れを機会に、辞めるつもりでいます」
「やはり本当でしたか……。残念ですね、児童福祉関係で随分がんばってらっしゃったのに」
「いえ、任期中にやるだけのことはやりましたし、私の跡を継いでくれる若い者がいますから。……それに、もう議員なんてのはこりごりですよ。私みたいな者が下手に人の上に立ったがために、この子を随分ひどい目に遭わせてしまいましたし、天野さんとこの親父さんにも迷惑をかけてしまいましたからね……」
 そう言っていとおしそうに娘の肩を寄せる繁弘に、佐祐理は、
「お父様……」
 感慨深げに父の顔を見つめていたが、やがてぽんと手を打つと、
「ねえ、お父様。写真を撮りませんか?佐祐理と舞と、そしてお父様を入れて」
 こぼれるような笑顔でそう提案した。
「えっ……いや、私はいいよ。二人が卒業するんだから、二人で撮りなさい」
「遠慮しないでください。だって、お父様も卒業じゃないですか。議員生活からの」
 そう言ってにこやかに笑う佐祐理に、繁弘は、
「えっ、ああ、確かにそうとも言えなくもないけど……」
 思わずあたふたとしたが、結局娘の押しに負け、かばんの中に入っていたカメラを秋子に渡すと、校舎を背にして立つ二人の横に、緊張した面持ちで立つ。
「いいですか……一、二、三、はい!」
 そんな秋子の声とともに、小さなシャッター音が正門に響いた。


 それから二十分ほど後。
 一同の姿を、校門からまっすぐ南へ伸びる道に見いだすことが出来る。
 実は今日一同は、卒業式の後、二人の晴れ姿を啓子と一弥の墓前で見せるため、二人の墓参りに行く約束していた。
 ただ、繁弘はいない。佐祐理が一応話したのだが、
「ああ、そうか……一弥のな。本当は私も行きたいのはやまやまなんだが、さっき、明日の午後、緊急の聴聞会を開くから来いという電話がかかって来てしまってね。式が終わったら、すぐに議会に行かなけりゃいけないんだ。本当にお前にも一弥にも申しわけないんだが……。あとで一人で行くから、私の分まで手を合わせて来ておくれ」
 そう言って、辞退したのだ。
「しかし、失礼なこと言うようだけど、佐祐理さんのお父さん……思っていたのと違って、すごくいい人だったな」
 佐祐理や舞と並んで歩いていた祐一が、感心したように言うと、佐祐理は、
「失礼なんてことはないですよ。あの話を聞いて、いい印象を持つ人は普通いないでしょうから……。それに実際、昔のお父様は、祐一さんが恐らく想像した通りの人でしたしね」
 佐祐理によると、繁弘は元々今のように気さくな性格の男で、子供の頃は隣家の天野家の息子で美汐の父・治雄と仲がよく、その辺の子供と同じように泥んこになって遊んでいたという。
 それが変わったのは、東京の大学に進学し、卒業して地元に戻って来てからであった。
「何でも、あちらの大学で政治系のサークルに入ったらしいんですけど、そこで『君には政治家としての能力がある』とか『君は他の人間と違う』とか、散々持ち上げられたらしいんですよね。その影響で、人が変わってしまったそうで……」
 爽やかな田舎青年から、鼻持ちならないエリートに変貌をとげてしまった彼は、もはや治雄ともつき合うこともなく、そのまま県議会議員選挙に出馬し、議員となってしまった。
 その県議会議員も決してまじめに務めたものではなく、「長いものには巻かれろ」という地方の保守的な議会にありがちの行き方を地で行ったようなもので、その頃の彼には、地元の土建屋や関係業者との灰色の噂が絶えなかったという。
 しかし、そんな暴走を続ける彼の勢いをくじいたのが、一弥の一件であった。
 実はこの一件で、繁弘は長男だけでなく、細君も失っている。
 長年、夫の締めつけに耐えに耐えて来たのが、この一件でついに我慢の糸が切れたらしく、ある日突然実家に戻ってしまったのである。
 当然、繁弘はあわてふためいて実家まで行って帰って来るよう言おうとしたのだが、それまでの彼の行いをよからず思っていた細君の両親によって家にも入れてもらえず、結局彼女を取り戻すことは出来なかった。
 このことで、彼の今までの自信がゆらぎ始めた。自分はさも世のためになっているような気でいるが、実際には人から持ち上げられていい気になって、他人に迷惑をかけているだけではないのかと、そう思い始めたのである。
 その彼に、さらに追い打ちをかけたのが、佐祐理の自殺未遂であった。
 繁弘は、奈落の底へ突き落とされた気分であった。自分の行いのために、息子を失い、細君を失い、そして今、娘までも失おうとしている。そういう思いが、彼の心を責めさいなんだのだ。
 そして、何ヶ月も悩みに悩んだ末、繁弘は今までの生き方を捨て、昔のような大らかな生き方をすることを決意したのである。
「それで、しがらみの少ない市議会議員選挙に臨んだんですが……大変だったみたいですよ。まず有権者の眼があまりいいものではありませんでしたしね。限りなく落選に近いところで当選したら、今度は昔つき合いのあった土建屋さんなんかとの縁を切るのが大変で……。やくざをつかって脅されたり、ビラで誹謗中傷されたり……最初の一年は、佐祐理が見ていてかわいそうなくらいでした」
 しかし、彼はそれに耐えた。自分の家族が受けた苦しみに比べれば、
「こんなことくらい、何てことはない……」
 というのだ。
 そして、佐祐理のこともあって児童福祉に興味を持った繁弘は、降りかかる火の粉を必死で払いながら、児童相談所や幼稚園などの問題に果敢に挑戦し、いつしか「市民派議員」として人気を博すようになって行った。
 むろん、議員としての活動だけでなく、近所づきあいも大切にした。治雄にもわびを入れたし、町内会の集まりなどにも可能な限り積極的に参加するようになった。その結果、今のような彼が出来上がったのである。
 そう佐祐理が語るのを聞いて、
「ふうん……佐祐理さんと同じように、親父さんも、随分悩んだり苦労したりしたんだな……」
 しんみりと言ってみせる祐一に、佐祐理も、
「ええ……だから、佐祐理もがんばらなくちゃって、そう思うんです」
 たおやかにほほえみ、決意をこめた声で返してみせる。
 その佐祐理に、祐一は穏やかに笑ってみせると、
「あ、そういえば……舞、剣を手放した感覚はどうだ?不安じゃないか?」
 横にいた舞に水を向けた。
「……大丈夫。一昨日誓ったことを胸に心がけていれば、自然と安心出来るみたい」
「そうか……そりゃよかった」
 あれから、一同は不眠不休をおして浦藻の許に戻り、一部始終を話して聞かせた。
 そして、件の三振の剣は、その話を聞いた浦藻が再び判定を行い、「気」があることを確認したことで、正式に物見神社の神宝として認められ、神籬(ひもろぎ)の上にご神体とともに祀られることになったのである。
 その時、舞が心なしか不安げな表情を浮かべていたのを見て、少し心配になっていたのだ。
「しかし、関係者しかいないから話すけどさ……本当に夢みたいだったよな、一昨日のあれ」
「……うん」
「今日も、突然生徒会長が久瀬じゃなくて、うちのクラスの斉藤ってやつになってて、びっくりしたよ。しかも、みんな久瀬なんてやつはいない、なんて言うし、あいつが生徒会で悪逆非道の限りを尽くしたことも忘れちまってるんだ」
「あ、それ……佐祐理たちもそうだったんです。久瀬さんじゃないからおかしいな、と思って、終わったあと先生におうかがいしたら、やはり同じようなことを……」
「そうなのか……じゃあ、すべては、あの手先のやつが見せていた幻か何かだったのかな」
「……そうかも知れない。あの手先は、『久瀬進』という人の姿を利用した、と言ってたから」
「そうか……」
 そんなことを話している間に、一同は二人の家の墓がある「南森大師」こと宗光寺の近くまでたどり着いていた。
 沢潟へ向かう沢潟街道が、門前から黒光りする瓦を乗せた白い土塀に沿って鍵の手に曲がっているこの辺は、大師原の中で一番早く開けた中心地でもある。
 その鍵の手を、いかにも狭苦しそうにして不動山行の乗合自動車が通り過ぎるのをやり過ごすと、一同は東面している山門をくぐった。
 そして、まず本堂と大師堂で手を合わせると、裏手の墓地へ向かったのである。
「あ、そういえば……」
 と、墓地の手前で水を汲んでいた時、佐祐理が、
「実はうちと舞の家のお墓の近くに、久瀬さんの家のお墓があるんです。そこも、お参りして行きませんか?」
 ふと思い出したように言い出した。
 それに一同が同意するのを見て、佐祐理は先頭に立って墓地を歩き始める。
 そして、墓地の一番奥の列まで行くと、その入口に立って、
「この奥、右側が倉田家代々のお墓、その斜向かい、左側が川澄家代々のお墓です。そしてそこの、手前すぐのとこにあるのが久瀬さんのところのお墓です」
 そう言って、順に墓を指差してみせる。
 彼女の指に従って、手前から三番目のところにある墓を見てみると、確かに「久瀬家之墓」とある。
 その墓誌には、真ん中あたりに男の戒名と、
「昭和五十四年六月十五日 十七歳 俗名 進」
 と、「久瀬進」の名が刻まれていた。
 一同は、線香の束に火をつけて線香台の上に置くと、秋子があらかじめ用意していた仏花を花挿しに立て、順に手を合わせる。
 それが終わると、一同は「川澄家代々之墓」と彫られた啓子の墓の前に移動し、同じように線香と花を供えた。
 一同が手を合わせ終えると、舞は、母の入っている墓を見つめて、
「……お母さん、来た。この通り、卒業したから……」
 それだけぽつりとつぶやき、その場に座って眼をつむり、静かに手を合わせる。
 彼女は、塋下(えいか)の母と語り合うこともなく、ただただ、黙ったまま祈り続けている。
 だが何も言わずとも、一同には、舞の胸に去来する不幸だった母への真摯な想いと、これから新しい人生を歩もうとする彼女自身の決意が伝わって来る気がした。
 そして、最後に「倉田家代々之墓」と彫られた一弥の墓にも、線香と花が供えられる。
 と、その時、佐祐理を除く一同が手を合わせ終え、佐祐理が手を合わせようとしたところで、急に舞が、

「……みんな、しばらく佐祐理をひとりにしてあげて」
 一同にそう提案した。
「そう……ありがとう、舞。でも、舞はいいの?お母さんと二人きりにならなくて……」
「……私はいい。さっきので、充分伝わったから。だけど佐祐理は、一弥に話すことがたくさんあるはず。だから……」
 佐祐理は、舞の気づかいに心なしか困ったような顔つきになったが、
「舞……。じゃあ、そうするよ」
 すぐに彼女の気持ちに気づいて、腰をかがめる。
 それを見届けると、一同はその場を離れた。


「一弥……お姉ちゃん、来たよ。ほら、お菓子と、水鉄砲も持って来た。一弥が、最後にお姉ちゃんと遊んでくれた、ね……」
 一同が去った後、佐祐理はそう言って静かに墓に語りかけ、袋に入れて持ってきた駄菓子と空の水鉄砲を墓前に供える。
 それは、一弥が死ぬ少し前、佐祐理がこっそり見附の電停前にある駄菓子屋で買って来て、彼に与えたものだった。
 死に瀕しながら、小さな口でこの手から菓子を食べ、空の水鉄砲を撃ち合った、あの時の一弥のあどけない笑顔が、今もまぶたの裏に浮かんで来る。
「今日ね、卒業式だったんだよ、お姉ちゃんの。きれいでしょ、着物。お父様が、借りてくれたんだ……」
 そう言って袴のすそをちょんとつまみほほえむが、すぐにその笑みは寂しげな色に変わる。
「一弥にも、見せてあげたかったな。……生きていれば、五年生だったもんね」
 うつむきがちにそう言いながら立ち上がると、静かに柄杓で墓碑に水をかける。
「ねえ、一弥。突然こんなこと言っても信じてもらえないかも知れないけど、お姉ちゃん、一昨日化け物を退治したんだ。その化け物、ひどいやつでね、お姉ちゃんのことをひどい姉だって言って、さんざんいじめたの。お姉ちゃん、泣いちゃった」
 そう言うと、佐祐理は再び袴を整え、座りこむ。
「……でもその時、お友達の舞が、言ってくれたの。お姉ちゃんは、確かにひどい姉だったかも知れないけど、仕方のないことだったんだ。過去を責めても、どうにもならない、そんなことより、必死に、まっすぐに生きて行くことの方が大切だ、って。それ聞いた時、お姉ちゃん、眼の前にかかってたもやがすうっと晴れるような思いがした」
 そこで一つ息を吸うと、彼女はふっと顔を上げた。
「だからお姉ちゃんも、自分を責めるの、もうやめにしようと思うの。そして、お姉ちゃんが本当に自分らしく生きられるよう、幸せになれるよう、がんばって生きて行こうと思うの。お父様や、舞や、みんなと一緒に。その輪の中に、一弥がいないのが寂しいけど……」
 そう言って、真正面から墓碑を見つめ、
「駄目……かな?許してくれる?ねえ、一弥……」
 そう問いかけた時、佐祐理の上で静かに風が吹いた。
 と、その時、その風の音に混じって、彼女は、
(……いいよ、お姉ちゃん……ありがとう……)
 ふっとそんなかすかな声を聞いた気がした。
「えっ……?」
 立ち上がって、辺りを見回してみるが、当然誰もいるわけがない。
 佐祐理はしばらく戸惑っていたが、やがて、ふっとやさしい顔つきになると、
「……ありがとう、一弥……ありがとう……」
 腰をかがめ、静かに眼をつむって、ゆっくりと手を合わせた。
 その眼の前で、線香の煙が、まるで彼女の想いであるかのように、まっすぐに青空へ立ち上って行く。
 本堂の前に揚げられた「南無大師遍照金剛」ののぼりが、春風に静かになびいた。

<つづく>
(平十六・二・十四)
[平十六・二・十六/補訂]
[平二十・二・十一/再訂]
[平二十一・五・六/三訂]

[あとがき]

 どうもこんにちは、作者の苫澤正樹です。
 さて、「花ざかり」第三回目「暗夜の月」、いかがだったでしょうか。
 前回の「盟神探湯」で思ったより長くなってしまって驚いた、と書きましたが、今回はさらにそれを上回る大部な作となってしまいました。前回が原稿用紙にして百二十五枚弱という量だったので、今回は恐らく百七十枚くらいはあるのではないかと思います。さすがにここまで来ると、恐ろしくてとても原稿用紙何枚分かなどと調べられませんが……。しかもファイルの大きさも前回が百二十一キロバイト(タグ整理により当初より四十キロほど減少しました)、今回が百八十四キロバイト(!)という画像ファイル並みの大きさで、お読みいただいているみなさまにご迷惑をおかけしているのではないかと心配しております。しかもこれを書いた時、躁鬱病の鬱の方(正確にはまだこの時は躁鬱病ではなく鬱病の扱いだったのですが)が激しくてサイト含めインターネット関係が全てなおざりの状態となり、
連載中断についておわびを申し上げることになったりして、正直かなり大変な状態でした。
 ところで今回の話ですが、前回とまた違った意味で非常に複雑な内容となってしまいました。舞と佐祐理さんの二人の問題を一気に解決しようとしたこともさることながら、戦闘場面がどうしても長くなってしまうことや、舞の過去の経歴が非常に大部なものであること(恐らくKanonのヒロインの中では一番でしょう)、また原作シナリオ自体の解釈の問題などもあって、結果的にこのようなことになってしまったのです。
 特に難しかったのが、原作シナリオにおける祐一と舞の過去の行動をどう解釈し解決するか、という問題でした。この作品は「いたずらに過去を責めることは不毛である。それより自分の弱さを受け容れ、眼の前の現実に対峙しながら、不器用でも真摯に生きて行くことの方が大切だ」という考え方の許、祐一とヒロインたちが自分の中の過去の呪縛を自ら解き放ち、互いに許し合いながら「殺生石破壊」という目標に向かって突き進んで行く、というのが主題です。前回の真琴とあゆに関しては「過去の遺恨は祐一の弱さのため」という解釈が成り立ったので、そのまま浦藻の盟神探湯で祐一が自分の弱さを受け容れる、という内容に出来たのですが、今回は少し勝手が違いまして……。
 佐祐理さんに関しては同じ流れを舞に代弁させる形で適用出来たのですが、舞に関してはそれが出来ませんでした。舞の原作シナリオを考えてみれば分かるのですが、彼女に関する遺恨のそもそもの始まりは、「会いたいと思って狂言の電話をかけて来た舞を祐一がけんもほろろに突き放した上、忘れてしまった」というところにあって、「弱さ」にあるのではありません。作品中でも書きましたが、それは単に「軽率」だったから、と言ってしまっていいでしょう。むしろ、舞が「魔物討伐」に陥って行ったのには、祐一のせいももちろんありますが、それより「力」を受け容れることを拒み、殻に閉じこもってしまった彼女自身の「弱さ」が主な原因であったと思います。そのため、この作品では舞が自分が「弱さ」を自覚して苦しむ、という話になってしまい、彼女にとっては酷な展開になってしまいました。殊に第四節の中盤、舞が祐一の軽率さをとがめ立てせず、あっさりと済ませてしまったという場面は、祐一にとって都合がよすぎると思われるかも知れません。もしそう思われましたら、深くお詫びいたします。
 ともかく、ここまでお読み下さいまして、まことにありがとうございました。
 それでは、第四回目でお会いいたしましょう。
 なお、今回の設定はこちらです。


[追伸]

 ちなみに今回、夜の場面と次の日の日の出の場面を書くにあたり、実際に今回の話の日時として設定した平成十一年三月二十六日の月齢と、翌日の日の出の時刻について調査いたしました。その結果、仮に緯度を北緯三十七度十五分、経度を東経百四十度二十分として計算して、前者が月齢七・八、後者が五時三十三分であるという結果を得ました。作品中に出て来る「弦の少したわんだ上弦の月」や「五時半過ぎの日の出」などはこれに基づいております。


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